実際、多摩村にも東京府からこれらに関する調査の依頼がたびたび寄せられている。昭和六年(一九三一)には、四月と十一月に「欠食児童調査に関する件照会」が東京府学務部長から多摩村長に依頼され、授業料免除者の数、授業料滞納者の数、保護者会費滞納者の数、長期欠席児童数とその理由、昼食を欠くもの及び時々欠くものの数を報告することが求められている。この時点での人数は不明だが、昭和八年三月の小学校長からの報告では、長期欠席児童は一四人で、そのうち病気によるものが一人、貧困によるものが一三人となっている(多摩市行政資料)。また昭和六年十二月と昭和七年三月の二回にわたり、東京府から「貧困学齢児童就学奨励交付金」一〇八円が交付されている。これは、貧困学齢児童の生活費補助を目的としたもので、その対象となる児童、延べ九一人は、小学校長、役場が調査のうえ、学務委員・区長・村会議員の意見を聴取して決定された。また交付は、保護者を役場に集め、学校長が立ち合いのもとで行われ、交付金の使い道には最善の注意を払うことが徹底されている(資四―76)。
こうして恐慌のなかで小学校児童の学習環境をめぐる問題が、社会的にもまた政治的にも大きく扱われるようになったが、実際にはこれ以前においても、表1―7―18にみるように小学校児童の学習環境をめぐる問題は長く存在していた。多摩村では、大正十四年三月と五月に二一名の児童の就学猶予に関する許可を南多摩郡長から受けている(多摩市行政資料)。また昭和四年四月には、一七名の児童が就学猶予となっていることを東京府に報告している(多摩市行政資料)。多摩村には、就学を猶予せざるをえない事情を持った小学校児童が、ほぼ恒常的に存在していた。それでは、なぜこの恐慌期に児童の学習環境の問題が社会的関心を集めることになったのだろうか。これは、大正期から徐々に高まっていった学校教育に対する社会的期待や要求の高まりといった問題を抜きにしては語れないように思われる。実際多摩村でも、限界はあるものの子どもたちに尋常小学校以上の教育を受けさせようとする傾向にあったことがみられる(表1―9―1)。
表1―7―6 多摩村・南多摩郡の諸車輛数
中学校以上 | 実業補修学校卒業 | 高等小学校卒 | 尋常小学校卒 | 尋常小学校未卒 | 多摩村合計 |
2 | 3 | 18 | 14 | 5 | 42 |
中学校以上 | 府立織染 | 府立二商 | 農業学校 | 高等小学校卒 | 高等小学校中退 | 尋常小学校卒 | 合計 |
14 | 3 | 4 | 9 | 71 | 4 | 14 | 119 |
中学校以上 | 女学校卒 | 商業学校卒 | 農業学校卒 | 高等小学校卒 | 高等小学校中退 | 尋常小学校卒 | 合計 |
4 | 8 | 1 | 12 | 216 | 10 | 54 | 305 |
いずれにせよ、たとえ農業恐慌の影響を受け生活が困難になったとしても、子どもたちに相当の教育と環境を与える必要があることは、昭和初期には一定程度の社会的共通認識となっていた。このことが、恐慌下において児童の学習環境をめぐる問題を、大きな社会問題としてクローズアップさせる要因となっていたのである。そして次にみるように、多摩村ではこれが教育施設改善の要求として現れてくることになる。