尋常小学校の校舎改築

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先にふれられているように、明治四十五年(一九一二)多摩村は学校体系の再編をはかり、それまでの処仁小学校を第一分教場、兆民小学校を第二分教場とし、高等小学校は本校に統一した。その際には、激しい学区間対立もおきていた。その後、村内の学校事情には基本的に変化がなく、分教場の校舎などは明治期のものがそのまま使われていた。
 しかし、昭和五年(一九三〇)十月頃から分教場校舎の改築を求める声が村内であげられるようになる。その口火を切ったのは、和田、東寺方、一ノ宮の第二分教場学区からだった。同年十月第二分教場学区内の有志は、「生活改善及村長宛陳情書提出の件」について協議を重ね、各地域内の同意をとりつけたうえで、十一月村役場に陳情書を提出している(伊野富佐次「備忘録」)。この陳情の内容は、具体的には不明であるが、その後の経緯からして、分教場の施設の改善を求める事項を含むものであったと考えられる。こうした、村内からの要求を前にして、村では昭和六年(一九三一)四月に村会議員、学務委員と区長による協議会を開き、第一と第二の両分教場の第四学年児童を本校に収容すること、しかし第一分教場に関しては本校に通学させるには距離があり、分教場への通学を希望するものがいるため第四学年を残すことを決定している(伊野富佐次「備忘録」)。ここでは校舎の増改築は決定されなかったが、これは農業恐慌の打撃をこうむった村内の経済状況を考慮し、村民負担を回避し、ただでさえ困難な状況にある村財政をこれ以上圧迫することのないよう配慮したためであったと思われる。
 ところが、これからほぼ一年後の昭和七年(一九三二)三月になると多摩村は本校の増築と分教場の改築にふみきる。今のところこの間の経緯は全く不明であるが、おそらく村内から増改築の要求が強くなり、このままでは学区間対立が再燃する恐れがみえはじめたため、実施に踏み切らざるをえなくなったものと思われる。ともあれ、校舎の増改築は、三月十五日の学務委員協議会で決定され、十七日の村会で承認される。二十二日には、村会議員と学務委員の協議会が開かれ、本校の増築と両分教場のそれぞれ三教室の改築が本決まりとなる。また将来において必要があれば校舎を増築することも合意されている。建築顧問には富沢元村長が就任し、また小川二郎ほか計三六人からなる建築委員が設置され、そのなかの一一人が建築常任委員に選ばれている(多摩市行政資料)。
 ところが、この小学校校舎の増改築はすんなりとは進まない。その第一の原因は、四教室増築論が依然として第一分教場校区に根強く存在していたためである。三月二十五日には第一分教場学区の一一〇人が区民大会を開き、四教室設置を村に陳情している。このため村では協議会を開くことになったが、この時の臼井丈助村長は、「たいした問題ではなく心配していない、三教室増築でなく四教室にしろというだけなのでじきに解決するだろう」と語っている(『多摩町誌』、『東京日日新聞』昭和七年三月二十九日付)。実際、四月五日に開かれた村会議員と学務委員の協議会では、「第一分教場は生徒少数にして三教室なれは収容力充分にして更に其必要を認めず、財政上差し当り必要無き工事を起すを免さず且第一を四教室と為す時は均衡上第二にも同様にせざるを得ず、故に規定の方針に依て之を遂行し、村長より落合区民に対して諒解し得る様懇談することゝせり、……」と計画通り増改築を進めることが決定される。四教室増築は、必要を認めるまで留保されることになった(伊野富佐次「備忘録」・多摩市行政資料)。
 小学校校舎増改築計画の前に立ちはだかった第二の難関は、財源の問題であった。村は、四月に「簡易生命保険並郵便年金積立金」と「大蔵省預金部地方資金」の借り入れを申し込んでいるが、これは不調に終わったようである。このため村では、この間東京府に校舎改築の申請を行うとともに、七月七日に村債の認可を東京府に申請する(多摩市行政資料)。このなかでは、小学校の増改築にいたった事情として、本校については児童数の増加により教室が不足し、昨年度は一学級増の措置をとったが器具室を使用せざるをえなくなったこと、分教場に関しては明治二十五年の建築のため旧式で老朽化し、改築が数年前から議論されていたが、地方財政の緊縮のおりから見送られ修繕して使用してきた、しかし児童数の増加により現況では全く収容不可能となり、分教場の改築が村の重大な世論となったことが述べられている(資四―123)。村の起債申請は、九月十九日に東京府から認可される。そして、十月十五日昭和七年度地方貸付資金が多摩村に供給されることが通知され、ようやく工事資金のめどがつけられた(多摩市行政資料)。
 一方、村内からは、農業恐慌に苦しむ村内の経済状況を考慮して、校舎増築を延期してはどうかとの議論もあがっていた。しかしこれは、「当字青年会事務所に於て第二分教場区内村会議員、学務委員及区長、区長代理の協議会を開催、出席す、議件は先般小学本校の増築及第一、第二分教場の改築を成す事に決定せられしが、或一部より不況の此際本校の増築に止め、分教場の改築は延期するを至当とすとの事に依り、本学区内の意向をまとめるにあり、協議の結果、断然既定の方針に依る事とし解散」というように、ほとんど問題にされることなく、増改築工事が進められていった(伊野富佐次「備忘録」)。
 こうして、ようやく建設資金のめどが立ち、小学校校舎の増改築工事が進められることになった。本校の増築工事は、九月十日にはじめられ、昭和八年(一九三三)二月二十六日に落成する。また第二分教場は二月九日に工事が開始され、五月十五日に終了。さらに第一分教場でも三月五日に工事開始となり、七月二十四日には工事が終了し、府の検査を受けている。こうして、農業恐慌期において村の一大事業となった小学校校舎の増改築は一段落し、十一月二十六日には「小学校増改築落成式」が挙行された(伊野富佐次「備忘録」)。
 この農業恐慌下においての小学校校舎増改築の実現は、ここまでの多摩村のあり方の一つの到達点を示したものであると考えられる。ややもすれば学区間の対立が引きおこされかねない局面はあったにしろ、村は各地区間の利害を調整し、課題を達成しうるだけの能力を備えるようになっていた。それは、この間の村内の地域的自治組織を行政の内部に組みこみ、行政と各地域によって形作られる重層的な村のあり方が、一定程度実体を持つものとして定着したことを示すあかしであったともいえるだろう。

図1―9―9 第一分教場の改築工事の模様