わきあがる農村救済の要求

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こうして農業恐慌に打ちひしがれた農村を前にして、「農村救済」を求める声が全国各地からわきあがる。南多摩郡でこの先頭に立ったのは、郡農会であり、ここに結集した町村長たちであった。当時この郡農会は、大正期に南多摩郡町村長会長であった森圓蔵が会長をつとめており、彼らの行動は大正期の経験をふまえたものであったと考えられる。最初に南多摩郡農会が取り組んだのは、出荷体制の整備と共同化であった。早くも昭和五年(一九三〇)十一月には、各町村で組織されつつあった出荷組合を郡単位で統括する連合会の組織が企てられている(『東京日日新聞』昭和五年十一月二十八日付)。また昭和六年度の新規事業では、販路拡大のための斡旋所や即売会の開催、農事実行組合を中心とした集団的農業経営の推進することなどが決定されている(『東京日日新聞』昭和六年二月八日付)。表1―9―2にみるように多摩村でも、昭和六年には様々な共同事業が行われ、これに対する補助を申請している(多摩市行政資料)。さらに郡農会は、医師会や法曹家などと連携して農家の衛生、法律問題の打開にあたるため相談所の設置を計画するとともに、各町村毎に様々な組織を網羅して臨時協議会を開き、ここで産業開発政策を樹立させることを構想していた(『東京日日新聞』昭和六年一月十日付)。また郡農会は、蔬菜や園芸作物を中心とする新たな副業の開拓も目指した。具体的には、日曜祭日の遊覧客を目当てとした花卉の栽培、甘藷やトマトなどの自由農園の設置などを計画している(『東京日日新聞』昭和六年四月二十八日・五月二十九日付)。
表1―9―2 昭和6年度に行った多摩村の補助申請
年月日 表題 申請 内容
S6.5.18 種豚購入補助申請 村農会長伊野平三→郡農会長 和田養豚組合の種豚購入の補助、ヨークシャー種牡牝各1頭、12円
S6.6.23 共同施設助成金下付申請 和田農事実行組合長真藤太一→府知事 農山漁村共同施設助成規程(S6.4)による共同作業所設置への助成金の申請、23坪の建物、254.30円組合員負担、220円府費補助見込額、共同事業=肥料配合、目籠の出荷、動力機装備、栗・柿などの共同出荷
S6.6 施設補助申請書 村農会長伊野平三→府知事 温床框設置補助の申請、従来他から購入していた種苗類を農会で自給し、温床により半促成栽培を実施、優良種苗類を各農家に配布して、その必要性とやり方を周知させる
S6.10 緑肥栽培補助申請 村農会長伊野平三→郡農会長 桑園の肥料を目的とした桑園間作緑肥栽培への補助申請、播種量1石1斗、桑園反別57反
S6.10.13 果樹払下申請書 村農会長伊野平三→東京府農事試験場 農会が果樹を植樹するので払下げられたい、無花果苗100本・葡萄苗200本・柿苗50本
出典:多摩市行政資料などより作成。

 こうした「農村救済」を求める声は、徐々に政治的な形をとっていく。昭和七年七月には、関東各町村の農会長三〇〇〇人が参加して、関東農会時局大会が開催され、「政府は直ちに全力を挙げて農村を救済すべき」と決議し、これを内務、農林、大蔵各省に陳情した(『東京日日新聞』昭和七年七月二十六日付)。一方、南多摩郡農会は、この七月に「南多摩郡不況対策評議員会」を組織し、恐慌対策の実施を要求していく。ここで最も大きな問題となったのは、農家負債とりわけ政府から借り入れた低利資金の償還問題であった(『東京日日新聞』昭和七年七月二十八日・二十九日・三十一日付)。八月十六日の不況対策評議員会では、以下のような要求事項を決定し、これを二十日に代表が上京し、三多摩選出の代議士とともに府と農林省などに陳情することを決定している(『東京日日新聞』昭和七年八月十八日付)。まず政府に対しては、第一に負債に関する事項として、政府低利資金の償還の五年間延期、その間の利子の免除など。第二には農産物価格引上げに関する事項として、制度改善と優遇政策、それに生産販売の統制の実施。第三点目には農村負担軽減に関する事項として義務教育費国庫負担金の増額と国税負担の軽減、それに農村救済上必要である農村土木事業、肥料の廉価供給、農会事業への補助、農業保険制度の実現などが求められている。一方、東京府に対しても、低利資金の償還延期、農村の負担軽減、府営の農産物販売所と集荷所の設置、自給肥料施設への補助、出荷組合への補助、共同乾繭事業への補助など一一項目の要求が陳情された。
 農業恐慌の下、こうした政治に対する要求は全国各地で盛り上がっていた。特に右翼農本主義の自治農民協議会が呼びかけた農村救済請願運動は大きな広がりをみせ、全国一六府県から三万二〇〇〇人の署名を集め、政府に農村救済要求を突きつけた。こうした動向の拡大は、農業恐慌の打撃や昭和六年九月の満州事変、昭和七年にはいって相次いだ血盟団事件や五・一五事件といった右翼によるテロといった政治、社会情勢の推移のなかで叫ばれ、定着するようになった「非常時」意識によって支えられていた。
 これら全国的な「農村救済」を求める声におされ、政府は昭和七年(一九三二)八月第六三臨時議会を開催する。この議会は、その性格から救農議会と呼ばれ、ここで米価対策である米穀統制法、農家負債対策の農村負債整理組合法、財政投資による時局匡救事業の実施の三つを主な内容とする農業恐慌対策が決定された。さらにこの救農議会では、時局匡救事業の一貫として農村経済更生運動の実施が決められている。九月には農林省に経済更生部が設けられ、以後農林大臣後藤文夫、農林次官石黒忠篤、経済更生部長小平権一の三人の「革新官僚」の指導のもと、恐慌克服に向け農山漁村経済更生運動が強力に推進されていく。十二月には、役場を中心に経済更生計画を立て、その中核機関となる産業組合の普及刷新を図り、小学校を中心に村民の精神更生を行うことなどを内容とする農林省訓令がだされ、経済更生運動は正式にスタートする(森武麿『集英社版日本の歴史20アジア・太平洋戦争』)。
 この経済更生運動には、二つの特徴がある。一つは、農村固有の「淳風美俗」とされた「隣保共助」が強調されたことである。これは、先にみたような村内部に存在し、大正期に行政ルートとしての位置づけを与えられた地域的自治組織を経済更生運動に取り込み、末端機関として活用しようとするものであった。もう一点は、「自力更生」が強調されたことである。冒頭でみたように、「農村救済」に立ち上がった町村長たちの行動は、大正期の自治権要求の延長に位置するものであった。しかし「非常時」意識の定着のもとでこれが政策として形を現わして行くにつれ、こうした「権利」要求は、「自責」や「義務」といった考え方に横滑りしていく。その先にあったのが「自力更生」であった。ともあれ農業恐慌克服のため農林省の指導のもとではじめられた農山漁村経済更生運動は、この時期以降の農村の経済と政治に決定的な影響を与えていくことになる。以下その具体的様相をみてみよう。