農山漁村経済更生運動の展開

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それではまず、東京府の農山漁村経済更生運動の概要を確認しておこう。昭和七年(一九三二)八月の救農議会を受けて、東京府では早くも九月に農山漁村経済更生運動の指導概要を定め、一年度に二〇町村、三年間に合計六〇町村を経済更生村に指定し、ここに組織する更生委員会を通して運動を実施することを決めている。十月に入ると府は、実施準備のため各地で協議会や座談会を開催し、指導方針の徹底をはかる。南多摩郡では、十月二十八日に各町村長を集め更生座談会が開催されている(『東京日日新聞』昭和七年九月二十二日、十月十三日、十月十四日、十月二十九日付)。
 十一月になると東京府は、経済更生運動を正式にスタートさせる。ここでは、府委員会―町村委員会―部落実行団体という指導ラインの設置や、更生村に指定された町村へ一万円、また一更生組合あたり三〇円、一町村につき合計五〇〇円の補助金を支給することなどが定められている。十一月十五日には、第一回の東京府農山漁村経済更生委員会が開かれ、経済更生計画について協議し、第二回委員会では元八王子、加住、七生、南、忠生など二〇町村を昭和七年度に経済更生村へ指定することなどを決定した。また十一月三十日には、斎藤実首相が西多摩郡三田村の状況を視察している(『東京日日新聞』昭和七年十一月三日、五日、三十日、十二月一日付)。
 次に、多摩村での農山漁村経済更生運動についてみてみよう。多摩村は昭和八年(一九三三)七月十三日に東京府から経済更生村に指定される。さっそく村では、富沢政賢ほか表1―9―3の二二名を委員とする経済更生委員会が組織され、更生計画の樹立にあたることになった(『多摩町誌』)。その後、十月には多摩村など八年度に指定された九村が提出した更生計画を東京府が承認しているところからみて、多摩村の経済更生計画書は指定から三月余りのうちに作成されたものと思われる(『東京日日新聞』昭和八年十月二十日付)。この多摩村経済更生計画書には(資四―77)、多摩村の農業組織、農家経営、農業生産そして村民生活に関する極めて包括的かつ詳細、具体的な恐慌克服を目指した計画が立てられている。多摩村でこうした地域開発の計画が作成されたのは、ほとんど初めてのことであり、また全村的な取り組みが行われた点においても極めて画期的なことであった。
表1―9―3 多摩経済更生委員会のメンバー
氏名 住所 経歴
小山玉治 関戸 青年訓練所指導員
富沢政賢 連光寺 元村長
小山茂左衛門 連光寺
佐伯源左衛門 連光寺 第四区区長
長沢末四郎 連光寺 産業統計調査係・在郷軍人分会評議員
伊野平三 貝取 元村長
井上晃 乞田 多摩小学校訓導
佐伯律太郎 乞田
稲葉良二 落合 多摩尋常高等小学校長
横倉寛一郎 落合 元書記、出荷組合長
横倉頼助 落合 元村会議員
寺沢〓一 落合 村役場書記、のちに助役
平山多四郎 和田 村会議員
峰岸将弥 和田
杉田浦次 東寺方 村役場書記、のちに助役、村長
杉田啓 東寺方 村会議員、在郷軍人分会副会長
藤井富蔵 東寺方 村会議員
山田富蔵 一ノ宮 村会議員
中川晋 一ノ宮 村役場書記補
伊野一雄 村役場書記補
後藤久根 多摩小学校訓導
石坂邦光 村役場書記補
出典:多摩市行政資料などより作成。住所の空欄は不明。

 さらにこうした更生計画は、各区ごとにも作成されていたようである。第一一区経済更生組合(上和田・百草)では、肥料の共同購入と共同配合の励行、共同作業場の利用と生産物の共同処理、肥料共同購入資金のための月掛貯金の励行、自給肥料の増産による金肥の節約、自給肥料中心の米麦施肥法の改良、副業(養鶏)の奨励、月例座談会の開催などを内容とする事業計画が作成されている。また、「本組合員は新興生活の基本を確立し、克己勤倹質素を旨とし、社会生活の弊風を改善し矯風の実を挙げ、以て自力更正村自治発展を期すべし」とする区民心得も定められた(南多摩郡農会『南多摩郡の経済更生組合』)。
 村の経済更生計画がたてられた翌年、昭和九年(一九三四)八月九日には村経済更生委員会が「社交儀礼改善の申合規約」を決定する(『多摩町誌』)。これは、冠婚葬祭など村民の社会生活を全面的に簡素化、合理化することを目的に定められたものである(資四―78)。こうした申合規約も村内の各地域で行われていたようである。例えば落合の上ノ根講中では、村と同様の「社交儀礼改善に関する申合規約」がつくられ、結婚式、諸祝、葬儀、贈答などの講中内のつきあいに関する規制が設けられた。またその際には、組合一般者の交際費は三〇銭までとされている(多摩市行政資料)。
 こうして農山漁村経済更生運動は、村民の生産や生活に大きく関わりながら展開されていくことになるが、個別の問題は後で詳しくみることとして、ここではもう一つの恐慌対策であった時局匡救事業=救農土木事業について確認しておこう。多摩村では、表1―9―4にまとめたような工事が昭和八年度から昭和十一年度にかけて農村振興土木事業として行われている。
表1―9―4 多摩村の農村振興土木事業の概要
年度 工事内容と場所 工事金額合計 備考
昭和8年度 治水工事(連光寺・乞田2・落合2)
道路工事(連光寺東部地内)
4979円
昭和9年度 道路工事(落合道・一ノ宮渡船道・船ヶ台道) 10882円
昭和10年度 道路工事(落合道・船ヶ台道) 2797円 農村其他応急工事、地方改善応急施設事業を含む
昭和11年度 道路工事(馬引沢) 398円56銭 農村其他応急土木事業
出典:『多摩町誌』より作成。

 この救農土木事業は、農村の労働力を活用し、資金散布と地域開発をはかり、恐慌からの脱却をねらったものであったが、現実にはそう円滑に進行したわけではない。第一に問題となったのは、各町村が負担しなければならない資金であった。救農土木事業には、府から多額の補助金が供給されたが、それでも総工費の四分の一は地元町村が負担しなければならず、これは財政状況が苦しい各町村にとって重い負担となった(『東京日日新聞』昭和七年十一月十八日、十二月四日、昭和八年八月二十五日付)。第二の問題は、工事箇所をめぐり各町村内部で政治的な争いが生じた点である。救農土木事業の工事箇所の決定は、概ね各町村にゆだねられていたが、南多摩郡のなかには、工事箇所をめぐり部落間で争奪が起こり、これを収拾するため政治的配慮を優先した申請を行い、府から再考を求められるところもあった(『東京日日新聞』昭和八年九月五日、昭和九年一月二十四日付)。

図1―9―10 中沢池の工事の模様