経済更生運動の諸相

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それでは次に、経済更生運動の農業生産に関する側面についてみてみよう。「自力更生」を掲げる経済更生運動にあっては、各農家の現金支出を削減するため、できるだけ肥料を自給化することが目指された。その大きな柱となったものの一つに緑肥栽培がある。ところがこの緑肥栽培は、期待されたほどには進まなかった。このため東京府は昭和十一年度(一九三六)から栽培奨励策として種子購入者に費用の七割を補助し、ようやく目標数量を確保するようになった(『東京日日新聞』昭和十一年九月五日付)。先にもふれたように、現実にはこれが各地区への「割当て」として降りてくることになる(資四―83)。
 またこの緑肥栽培の過程では、荒廃桑園の整理もすすめられた。しかし養蚕は、相場次第によっては大きな収入が得られることもあり、桑園整理事業は一向に進捗しない(『東京日日新聞』昭和八年十月二十一日、二十八日付)。このため東京府では、桑園での緑肥の混作にも助成金をだすこととし、さらに昭和十年度からは各町村に桑園の減反を割り当てるようになった(『東京日日新聞』昭和九年九月十一日、昭和十年九月十一日付)。この時多摩村には、整理が二町四反、改植が五反、混作が一町二反割り振られている。そしてこれもまた、村内各地区へ「割当て」として降ろされることになる(資四―82)。
 それでは次に、経済更生運動のなかの農家経営改善に関する側面についてみてみよう。ここで力が入れられたのは、出荷の共同化と統制である。販路として目指されたのは、昭和十年二月大消費地である東京市に開業した中央卸売市場であった。東京府や三多摩各郡農会は、昭和八年四月頃から中央卸売市場への進出をはかろうと動き始める。その際共同出荷は、同時に生産と販売の統制を意味するようになっていた(『東京日日新聞』昭和八年四月十一日付)。ところが中央卸売市場が開場してみると、三多摩からの入荷はほとんどなかった。これは、従来からの取引実績がなく、また規格が整った大量の出荷がないためであった(『東京日日新聞』昭和十年二月十五日付)。
 こうした事態に対処するため、東京府は出荷統制の強化にのり出す。昭和十年三月の南多摩郡出荷組合連合出荷統制協議会では、出荷団体や規格、検査と荷造、栽培品種といった農産物統制に関する府の方針が説明されている。またこの際には、なるべく共同で大量にかつ集中的に出荷すること、組合員の結束を強固にすること、荷造りは統一し、府の定めた基準にしたがい自治的検査を行い、その旨を明記したラベルを明確に貼付することなどが注意事項として指示された(『東京日日新聞』昭和十年三月二十日付)。ここにみるように、農家経営を改善し、その利益を保護するため経済更生運動で推進された出荷の共同化は、農産物統制へと結びつき、この徹底が行政ルートを通じてはかられるようになったのである。
 最後に、経済更生運動の農家生活に関連する側面についてみておこう。経済更生運動では、農家の現金支出をできるだけ削減するため、消費物資の自給化が推進された。多摩村では、農会が昭和十一年度事業として自家用醸造場の設置を決め、これに基づき四月に自家用醤油醸造に関する講演会を開催している(小林正治氏所蔵文書)。また村農会は、同年十二月に沢庵漬講習会も開催している。これは東京府の指導に基づくもので、「部内組合員、支部員中一〇名以上かならず出席のこと」とされた(小林正治氏所蔵文書)。
 さらに経済更生運動の農家生活に関連する事項で特筆すべきなのは、府内で一番早く多摩村で農繁期託児所の設置が実現したことである(資四―85・86)。これは、昭和八年(一九三三)五月に連光寺と一ノ宮の二か所に設置されている。今のところこの託児所設置にいたる詳しい経緯は明らかではない。ただ、二名の保母が府から派遣されているところからみて、東京府の何らかの指導のもとでこの事業が開始されたことは間違いないように思われる。子どもたちの世話には、府派遣の保母のほか、女子青年団員もあたっていたようである。
 この多摩村での試みは非常に反響を呼び、東京府はこれを三多摩各地に広げることとし、同年七月には高尾山で保母講習会を開催する(『東京日日新聞』昭和八年七月二十日付)。また同年九月には、春の二か所に加え、落合にも託児所が開設されるようになった(『東京日日新聞』昭和八年九月二十六日付)。こうした実績をふまえ、昭和九年(一九三四)の農繁期に東京府は、三〇か所に農繁期託児所を設置する計画を立てている(『東京日日新聞』昭和九年四月十二日付)。以後多摩村では、農繁期託児所が毎年開設されていた模様で、昭和十一年五月の落合第一農繁期託児所では、五月二十八日から毎日午前七時から午後五時半まで第一分教場で子供を預かり、受託料は昼食自弁で一二銭となっている(資四―87)。