次に、経済更生運動での青年層の動向についてみてみよう。先にもふれたように、更生運動では主要な担い手として青年が期待され、また実際青年団は運動推進にあたり大きな役割を果たしていた。多摩村もその例外ではない。多摩村青年団は、副団長をつとめ(団長は村長)、実質的には団長の役割を果たしていた寺沢鍈一を中心に、大正期にもまして活発に活動を展開するようになった。
それではなぜこの時期の青年たちは、経済更生運動に積極的であったのだろうか。これに対する答えを見いだすことは、非常に難しい。無論、農業恐慌や満州事変をきっかけとして、青年たちの間に「非常時」意識が一定程度定着していたことは間違いのないところである。昭和九年(一九三四)七月に発行された落合支部の「雑報第一七号」(多摩市行政資料)には、「目覚めよ若人」「青年修養と覚悟」「農村振興」「満州国の前途と皇軍の意気」「農村女性として」「非常時婦人の任務」といった「時局」意識に満ちた文章が数多く寄せられている。
しかしここには、こうした文章だけでなく、当時農村に暮らした若者の心情をうかがわせるものもある。例えば「社会を見て」という文章は、現代社会においては一方で贅沢に遊び暮らす人がいれば、他方には食に困る貧困者もいるという大きな隔絶が存在する、同じ国民でありながら、社会にこうした断絶があることは大変憂うべきことであると述べる。また同じ筆者は、「農業の有難さを感じて」と題する文章でこう記している。自分は故郷にあって「已むなく」農業に従事している、自分にも野心はあるが家のため、親のため、また学業ができないため田園を護ることを余儀なくされた、だが成功にあこがれ都会に出て失敗したものは多い、それを見るにつけ農業に「已むなく」なったことを今更ながら嬉しく思う、豊かな自然のもとで働くことには喜びがあふれていると。
ここからは、大正デモクラシーの薫陶を受けた当時の農村青年たちが、社会に対する一定の批判意識や「改革」への指向、都会の文明や文化への反発、またこれをくぐり抜けてきたところで生きる場所として「再発見」した農村への自負といった複雑な心情を抱いていたことが読み取れる。もちろん当時の農村青年たちの意識は多様であり、一概に単純化することはできない。しかし、こうしたものがぶつかり合い、様々に混じり合ったところに存在したのが経済更生運動であったと考えられる。そして当時これを最も明確かつ先鋭に表出し、活発な活動を繰り広げた組織が産業組合青年連盟(産青連)であった。
この産青連は、もともと産業組合の普及組織として昭和八年(一九三三)四月に結成されたものだが、産業組合拡充五か年計画が推進される過程で左翼的な青年層をも取りこみ、徐々に「改革」指向を強め、昭和十年頃には全国三〇万人の農村青年を組織する大衆運動へと展開した。その主張は、左翼的な資本主義批判に基づきながらも、階級を越えた農民の協同をめざすものであり、協同主義と共存同栄をスローガンとした。具体的には、全村的協同化と生産・生活の協同化をめざした共同作業や共同炊事、共同託児所などの実現にむけ、産青連は各地で運動を繰り広げていった(森武麿前掲書)。
南多摩郡でも、昭和八年(一九三三)四月に八市南郡産業組合青年連盟の設立協議会が八王子で開催され、産青連の組織化がスタートしている。ここでは、産青連が産業組合拡充五か年計画の「前衛」となって経済更生に邁進することが決議された(『東京日日新聞』昭和八年四月三十日付)。もっとも東京府では、産青連の勢力はそれほどのびなかったようである。その原因は、青年団の幹部が産青連の中心となる場合が多く、両者の活動が重なり人手がまわらないところにあった(『東京日日新聞』昭和九年四月二十九日付)。このためもあってか、産青連東京府連合会はあまり過激な路線は進まなかった。昭和十年の活動方針は、連盟の拡大強化、細胞組織の強化、執行部組織の拡大、女子の加入の勧奨、五か年計画の促進、産業組合への全農家加入の実現、消費組合の拡大強化と産業組合との連携、産業組合の自主性擁護、中小商工業者の反産業組合運動の排撃といった内容のものになっている(『東京日日新聞』昭和十年七月七日付)。
多摩村でも昭和九年三月の産業組合設立以降に産青連が組織されたことは確実である。ただ今のところこれに関する資料はほとんどみつかっていない。昭和十二年四月産業組合で麦作の寒害による被害の対策を立てるため多摩村産青連が各区長に被害状況の調査を依頼していること(小林正治氏所蔵文書)、また同年六月には産業組合優良事績の見学のため該当経済更生指定村を多摩村産青連が各県に照会し、栃木県から回答を受け取っていることなどから(多摩市行政資料)、多摩村に産青連が組織されていたことを確認できる程度でしかない。
しかし、昭和十三年十月に寺沢〓一が産業組合青年運動で産業組合中央会東京支会から表彰されていることから(多摩市行政資料)、彼が産青連においても中心的な役割を果たしていたことは確実である。そしてこの寺沢の青年団における影響力からみて、多数の青年男女が産青連にたずさわっていたことが推測される。人材がそう多くはなかった当時の多摩村の状況を考え合わせるならば、産業組合を実際に動かしていたのは寺沢や青年団、産青連の青年たちであったと考えてもそれほど無理はないように思われる。