多摩聖蹟記念館の開館

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昭和五年(一九三〇)十一月九日、多摩川を臨み、三多摩を一望の下におさめる多摩丘陵の一角、多摩村連光寺の大松山に多摩聖蹟記念館が華々しく開館する。この開館式には、村内外から四千もの人々が集まり、明治天皇の「聖徳」をたたえる記念館の開館を祝った。
 式当日は朝から雨だったが、九時頃には晴れ、十一時東京少年団員によって日の丸が掲揚され、開館式の幕が開かれた。ここでは、記念館を建設した連光会の専務理事で所有地を提供した宮川隆司の開会の辞、また多摩村の「聖蹟」を「発見」し連光会の設立の中心となった田中光顕の式辞、そして最も「聖蹟」にゆかりが深い富沢政賢元多摩村長の開館にいたる経緯の報告が行われ、明治天皇の銅像の除幕、浜口雄幸首相などからの祝辞や祝電の披露と続き、最後に一木喜徳郎宮内大臣の音頭による万歳三唱で締めくくられた(伊野富佐次「備忘録」)。
 この聖蹟記念館は、明治天皇が大松山を含む向ノ岡一帯の丘陵地に、明治十四年以来たびたび狩猟に訪れたことを記念し、これを「史蹟」として保存、顕彰するために設置されたものである。その中心となったのは、開館式に登場した三人であり、彼らによって昭和三年に設立された連光会であった。以下、このうち富沢と田中に焦点をあて、多摩聖蹟記念館がどのような歴史的文脈から生まれてきたものなのかを探ってみよう。

図1―9―12 完成直後の多摩聖蹟記念館の空中写真


図1―9―13 記念館前での記念撮影