富沢家と向ノ岡

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それではまず、富沢政賢についてみてみよう。富沢家は、今川家家臣を由緒とする連光寺村の草分であり、近世初頭から名主役をつとめ、幕末期には魯平、政恕の親子が日野宿組合四四か村の大惣代をつとめるなど、連光寺村のみならず南多摩一帯の「名望家」として知られていた。この彼らの「名望」は、政治的なものだけでなく、彼らが傾倒し門人を迎えるほどになっていた漢学や国学、俳諧といった文化的側面にも支えられていた。そして、この富沢家の文化面での「名望」を象徴する場所となったのが向ノ岡一帯の丘陵地であった。万延元年(一八六〇)の桜の植樹や明治七年の「馬車道」計画にともなう向ノ岡の開発構想など、富沢家の「名望」と向ノ岡の「名声」は表裏一体のものであった。
 こうした富沢家と向ノ岡の一体性は、明治十四年以降明治天皇がたびたびこの地を訪れ、休息に富沢家を利用し、さらには明治十五年(一八八二)御猟場が設置されるという「栄光」を加え、より一層強くなっていく。富沢家にとって、向ノ岡の「栄光」は自家の「栄光」であり、ひいては多摩村の「栄光」を意味するものとなっていた。
 ところがこの御猟場は、大正六年(一九一七)六月をもって廃止となってしまう。これは、富沢家の消長に関わる大問題であった。そこで富沢政賢は、御猟場が廃止となった直後の同年十月に、元の御猟場区域を禁猟区域とすることを出願する。これは、御猟場区域の維持、保存を目的としたものであったようである(『東京日日新聞』大正六年十月十二日付)。さらに、大正十年十一月には富沢政賢自らが総代となり、御猟場の復活を宮内大臣に請願する(富沢政宏氏所蔵資料)。なおこの請願には、馬引沢の住民が数多く名前を連ねているが、その多くが明治四十年二月に御猟場の廃止を東京府知事に請願した人々と重なる点は非常に興味深いところである。しかし、こうした御猟場の復活や維持を直接的に目指す方向は、富沢政賢がいくら望んでも実現されることはなかった。過去のものとなった御猟場の「栄光」を維持するためには、これを史跡として保存することが必要であった。

図1―9―14 昭和8年に史跡に指定された富沢邸