史跡保存が政策として本格的に取り組まれるようになるのは、日露戦争後に帝国主義国家としての国内体制を整備するため行われた地方改良運動からである。明治四十四年(一九一一)の地方改良運動に関する東京府知事の訓示では、「史蹟勝地紀念物等ノ保存ニ関スル件」で史跡などの保存をはかることが指示されている。ここでは、史跡や勝地、天然記念物といったものは先人の偉業を偲び、郷土を愛する情緒を育てる効果があり、歴史の古い日本には多くの史跡や天然記念物が存在するのでこの保存、保護をはかるようにと述べられている。また大正元年八月には、名勝史跡に関する調査が南多摩郡長から各町村に指示されている(『日野市史資料集近代1』)。
さらに大正七年十月、東京府は「史的紀念物天然紀念物勝地保存心得」を公布する。ここでは、史跡保存の重要性について「愛郷の精神はその郷土が持つ史的紀念物天然紀念物勝地などによって育てられるところが大きいだけでなく、国家的思想の源もまたここにある」と述べた上で、保存の対象となる「史的紀念物」と「天然紀念物」について規定しているほか、保存に関する注意として、市区町村が史跡などの調査と保存、維持につとめること、その際には「愛郷の観念」を育てるため青年団などの手により標識を設置すること、経費は市区町村が負担するが公益団体、篤志者それに一般からの寄付を募ることなどを指示している(『史蹟名勝天然紀念物保存法東京府』)。さらに府は、これと同時に「史蹟講演会及展覧会」を同年十月二十六日に府立第一中学校で開催する。この時演壇に立ったのは、井上府知事、前東京市長で史蹟名勝天然紀念物保存協会の副会長である阪谷芳郎、東京帝大助教授で古代史を専門とする黒板勝美らで、それぞれの立場から史跡などの保存の重要性について語っている(『東京府史蹟第一回講演集』)。
一方、全国レベルでも史跡保存に関する動きは顕著となっていた。民間では三好学らの唱導によって徳川頼倫を会長とする史蹟名勝天然紀念物保存協会が、すでに大正四年十一月に発足していたが、大正八年四月政府は史蹟名勝天然紀念物法を定めると同時に関係法令の整備をはかり、史跡保存に本格的に乗り出す。これに関連しては、すでに明治三十年の古社寺保存法があったが、これはその名称に示されるように古社寺を対象としたものであり、史蹟名勝天然紀念物法は保存の対象をより社会的に広げるとともに、欧米流の史跡認識に基づき、この保存、管理そして利用をすすめようとするものであった。
こうして史跡保存が行政の手によって政策としてすすめられていくにしたがい、向ノ岡や御猟場にまつわる過去の事実も、史跡として意識されてくるようになる。早くも大正七年に東京府が史跡調査にのり出した際には、明治天皇が多摩村を訪れた時に馬をつないだといわれる「御駒桜」が、標識予定調査地の一つにあげられている。ちなみにこの時東京府下では、五七か所に標識がたてられ、四九か所が予定調査地にあげられていた(『東京府史蹟名勝天然紀念物標識一覧』)。昭和五年の東京府のリストでは、「御駒桜」は府指定の「標識史蹟名勝天然紀念物」の名勝に指定されている(『東京府史蹟名勝天然紀念物一覧』)。
さらに御猟場や向ノ岡が史跡として認知されるようになる過程で見逃すことができない問題に、『明治天皇紀』の編さん事業とこれにともなう各地での調査がある。『明治天皇紀』の編さんは大正三年(一九一四)十二月宮内省に設置された臨時編修局(後に臨時帝室編修局)によってはじめられ、これは昭和八年九月まで続けられた。この過程では、公文書や元老重臣などの政治家および側近者を対象とした資料収集だけでなく、明治天皇の行幸先に関係する地方の資料についても広く調査が行われた。
この調査は、当然多摩村にも及んでくることになる。大正十三年五月臨時帝室編修局の調査官渡辺幾次郎は、南多摩郡の調査にはいり、八王子市と多摩村の行幸資料を収集する(『東京日日新聞』大正十三年五月七日付)。この時渡辺は、富沢家の行幸関係資料を詳細に調査し、これを参考資料としてまとめている(「連光寺村兎狩行幸資料」宮内庁書陵部所蔵)。こうしてすすめられた『明治天皇紀』編さんにともなう調査は、地域にある忘れられていた明治天皇の史跡に対する認識を新たにする重要なきっかけとなった。この時恩方村では、明治十四年に明治天皇が兎狩りに訪れた史実が発掘され、新聞紙上でその詳細が発表されている(『東京日日新聞』大正十三年八月十二日~十五日付)。また八王子市ではこの調査を契機に、明治十三年の行幸を顕彰しようとする動きが起こり、大正十四年七月には青年団、在郷軍人会そして八王子史談会の手により「明治天皇聖蹟碑」が建設された(『東京日日新聞』大正十四年八月一日付)。
こうして大正後期には、史跡や明治天皇の「聖蹟」の保存が各地で明確な形となって現れてくると、多摩村の御猟場と向ノ岡についてもこれを史跡として保存、顕彰しようとする動きが富沢政賢を中心に現れてくる。そして、これは当時三多摩各地でさかんにすすめられていた観光開発をにらむなかで、「聖蹟」を核として向ノ岡一帯を「名所」として開発しようという構想となって具体化していった。