三多摩地域には、小金井の桜や多摩川の鮎漁など、大正以前から行楽地としてにぎわう場所があったが、いずれも観光開発というにはほど遠い状態であった。この三多摩の観光資源を、新たに開拓しようという動きが大正期に顕著となる。このきっかけとなったものの一つに都市計画がある。急速に進展する都市化を前にして、大正八年(一九一九)四月の都市計画法の公布を契機に都市計画の論議が盛んとなる。このモデルとなったのは、欧米の都市計画であり、そこでは都市環境の悪化に対処するため郊外の公園や緑地も都市計画の一環として考えるようになっていた。このため日本でも同じような構想があらわれてくることになる。東京の場合この対象となったのが三多摩地域であった。そのなかでもとりわけ注目をあつめたのは高尾山である。高尾山は古くから信仰の対象として参詣客を集めていたが、東京郊外の公園に最適な場所として都市計画のなかで注目されるようになった。早くも大正九年に東京府山林会による公園化計画が持ち上がったほか、大正十年には東京市の公園計画、さらには大正十一年の府営公園の計画と、この時期行政によって続々と開発計画が立案されている(『東京日日新聞』大正九年八月二十五日、大正十年四月二十日、大正十一年六月十四日付)。これらは、いずれも東京の都市計画の一環として構想されたものであり、地元も積極的に高尾山を観光地として売り込もうという姿勢をみせていた。
さらにこうした開発の波は、民間からもおこってくる。これは主として鉄道会社による観光地開発の動きであった。そのなかで京王・玉南電鉄も当然観光開発に乗り出しているが、向ノ岡はその対象の一つとなっていた。府中・八王子間の開通を目前に控えた大正十三年(一九二四)十一月、玉南鉄道の向ノ岡開発計画が明るみになる。これは、玉南鉄道が向ノ岡の桜の馬場一帯の丘陵地を借用し、これに「桜ヶ丘」と名付け、大規模な遊園地として開発しようという計画であった。このときには同時に、当時敷設が進められていた南武鉄道にも、この隣接地に同様の開発計画を持っていることが明らかになっている(『東京日日新聞』大正十三年十一月十八日付)。
こうした動向に刺激されたのか、向ノ岡の地元多摩村でもこれを史跡として保存しつつ開発を進めていこうという動きが富沢政賢を中心に現れはじめる。すでに大正十年「御遺蹟保存会」が、富沢を中心に作られていたが、大正十二年には聖蹟保存会を組織することが、大松山の所有権を引き継いだ府中在住の宮川半助との間で決まる(多摩市教育委員会所蔵資料)。さらに富沢は、大正十四年から翌年にかけて東京銀座の実業家三枝代三郎との間に「向ノ岡遊園」建設計画を進めている(富沢政宏氏所蔵文書)。一方、大正十五年頃には玉南保勝会が設立される(藤井三重朗氏所蔵文書)。この会は、南多摩郡内多摩川、浅川沿岸一帯における名勝史跡の保存、振興をはかることを目的として設立されたもので、事務所を南多摩郡役所におき、支所を多摩・稲城・七生三カ村の役場に設置することとなっていた。対象となる史跡のなかでは、「先帝陛下及今上陛下がたびたび巡覧した史蹟が存在するという点では比類のないものである」と設立趣旨で述べるように、明治天皇関連の史跡保存が大きな位置を占めていた。またこの大正十五年、富沢は当時建設が進められていた南武鉄道に働きかけ、多摩村内を通過し、関戸で玉南鉄道と連絡するように路線を変更することを求めている(富沢政宏氏所蔵文書)。しかし、こうした富沢政賢の活動は、いずれもこの時点では実を結ぶことはなかった。開発を進めていくには、富沢政賢や多摩村の力はあまりにも限られていた。
この間、三多摩地域には皇室とのかかわりで大きな変動がもたらされる。それは大正十五年十二月二十五日の大正天皇の死去にともない、その陵墓である多摩陵が浅川村に建設されたことである。これにより皇室だけでなく、日本の「聖地」となった浅川村には、大勢の参拝客が訪れるようになり、またこれをめあてに土産物屋や飲食店が浅川駅(現高尾駅)周辺に軒を連ね、大変なにぎわいを見せるようになった(『東京日日新聞』昭和二年二月十一日、十三日付)。こうした動向は、挫折しかかっていた明治天皇の史跡を中心に向ノ岡を開発しようという計画を間接的にではあれ後押しするものとなったと考えられる。三多摩が「聖地」として脚光を浴びるようになれば、当然多摩村の「聖蹟」の価値も注目されることになる。そしてこれを「発見」したのが、元宮内大臣の田中光顕であった。