聖蹟記念館周辺の整備

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昭和五年(一九三〇)十一月に開館した多摩聖蹟記念館には、表1―9―10のように、その後毎年コンスタントに三万から四万の来館者があった。また、昭和八年十一月二日には、富沢家の行在所と対鴎荘が国から「史蹟」に指定された(多摩市行政資料)。
表1―9―10 多摩聖蹟記念館の入場者数
年度 人数
昭和5年 18,750
昭和6年 48,430
昭和7年 31,160
昭和8年 34,650
昭和9年 38,940
昭和10年 43,650
昭和11年 48,650
出典:「財団法人多摩聖蹟記念会設立許可申請」(資四―No.109)

 開館後の多摩聖蹟記念館をめぐっては、多方面から開発の思惑が入り乱れ、様々な形で周辺整備が進められていく。この点について、京王電軌の動向をまずみてみよう。この時期京王は、昭和二年(一九二七)一月の高尾登山鉄道の営業開始、同年六月の娯楽慰安施設である京王閣の開設、そして昭和六年(一九三一)三月に御陵線の開通といった具合に各地で開発をすすめていた。記念館に関しても、連光会の創立時に多額の寄付を行い、社長の井上篤太郎を筆頭に多数の重役が役員に名前を連ねるなど、京王は当初から深くこれに関与していた(『多摩聖史』)。また昭和五年から八年頃に記念館周辺で構想された連光園という観光施設の設置計画は、京王が中心となって進められたものである可能性が高い(富沢政宏氏所蔵文書)。
 一方、地元主導による記念館周辺の整備も、富沢政賢を中心に行われている。昭和六年(一九三一)三月には、府山林会が記念館周辺に三年計画で栗林の造成と椎茸栽培を計画し、その手始めとして各千本ずつを植え付けたほか、富沢ほか有志が向ノ岡の桜林の開拓を始め、さらにいも掘り農園が計画され、秋になると村農会と連光寺甘藷耕作組合によって設けられたこの農園が、多くのいも掘り客でにぎわっている(『東京日日新聞』昭和六年三月十一日、十月十六日付、資四―96)。また昭和七年十一月には、田中光顕が九〇歳を迎えた記念に、三多摩各地の青年団・在郷軍人会が記念館周辺を自然大公園にしようと祝賀植樹記念会を組織し、大規模な植樹を行っている。この事業には、多摩村、忠生村、鶴川村、府中町、南村などの青年団員三〇〇人のほか、東京から神州青年連光会員二〇名が徒歩で参加している(『東京日日新聞』昭和七年十一月四日付)。さらに、この年の十月には多摩・七生両村で、高幡不動から百草園を経て聖蹟記念館、天守台山にいたる「多摩遊覧道路」の開設が計画される。多摩村でこの事業の中心となったのは富沢政賢で、「農業だけではとてもやっていけない、都会から人を招き風景の経済化を行わなければならない、これは思想悪化の時代に史跡尊重の念を起こさせることにもなる」という談話をよせている(資四―97)。
 ところが地元多摩村で、記念館の周辺整備の中心となっていた富沢政賢は、昭和九年(一九三四)二月二十六日に亡くなってしまう(伊野富佐次「備忘録」)。さらに記念館をめぐっては、工事代金の未払いが大きな問題となり大倉組から訴訟を起こされてしまう。最終的にこの訴訟は、田中光顕が三菱財閥の岩崎久弥から八万三千円を用立ててもらい処理されるが、このごたごたの過程で田中と京王の対立があらわになる。観光地化構想を進めようとする京王に対して、田中は精神修養道場としての記念館のあり方を主張、ついには京王の役員引き上げと事業資金提供の打ち切りとなってしまう。このため記念館は、極度の経営難に陥ってしまった(『多摩聖史』)。この苦境を脱するため、記念館は組織を財団法人にすることを目指すが、ここで資金提供者となったのが製薬会社のわかもと本舗社長であった長尾欽弥である。昭和十二年(一九三七)五月には、田中と長尾が財団法人多摩聖蹟記念会の設立を文部大臣に申請、これが認可されることにより記念館はようやく安定した運営基盤をえることができた(資四―109)。この二年後の昭和十四年三月二十八日、田中光顕は静岡県蒲原町の別荘で死去する。
 それでは記念館を訪れた人たちは、どのような目的を持っていたのだろうか。この点に関しては、記念館周辺の丘陵地が、東京郊外にある格好の日帰りハイキングコースとなっていたことがまず指摘できる。このため京王は、いくつかのモデルコースを設定し、これに関するパンフレットを作成して宣伝、集客にっとめたほか、運賃割引などのサービスを行っている(資四―110)。
 第二に指摘できるのは、聖蹟記念館が戦前東京市内の小学生にとって修学旅行の定番のコースとなっていたことである。京王線に結ばれた多摩御陵と聖蹟記念館、そして高尾山は、当時の小学校にとって野外で修身、国史そして心身鍛練などの授業を行うまさにうってつけの場所となった。最も早く記念館周辺を修学旅行に訪れたのは、学習院輔仁会で昭和五年五月十日のことであった。この一行には、崇仁親王、朝香宮邦英、東久邇宮盛厚、久邇宮邦英といった皇族も参加しており、関戸駅から天王森、大松山を経て、建設中の記念館を視察、関戸河原で模擬戦を実施している。なおこの時富沢政賢が、一行を応接し、接待の手配や案内にあたった(富沢政宏氏所蔵文書)。また、昭和五年の『東京府郷土教育資料郊外編』という修学旅行の手引書にも「連光寺聖蹟地」が登場する。ここには、「明治天皇の御聖徳を敬仰せしむべきこと」、「皇室の覚えめでたき地は全国無二であることを知らしむること」の二点が、教授上の注意としてあげられている。
 第三に記念館を訪れる人々で多かったのは、会社の団体修養旅行の人たちであった。重工業の発展にともない工場労働者は激増したが、この中心は若年労働力であり、流動性の高い彼らを職場につなぎ止めておくためには、労務管理とともに彼らの健康を維持し、慰安と娯楽を与えることが重視された。実際、昭和十年代にさかんに行われるようになったハイキングや登山などの郊外レクリエーションの主役となったのは彼らであり、シーズンともなると週末には多数のハイカーが繰り出すようになる(高岡裕之「観光・厚生・旅行」)。こうした状況に対応するためか、昭和十一年(一九三六)には記念館で「勤労と休養の会」がつくられている。これは、主として工場や会社を会員とし、その従業員へのレクリエーションや娯楽施設を記念館が提供しようという計画であった。