開発行政と多摩村

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それでは次に、観光開発に関する行政の動向について確認しておこう。ここまでみてきた聖蹟記念館に限らず、大正期から引き続き、昭和初期には観光開発に対する期待が三多摩各地で盛り上がっていた。そこには、恐慌にあえぐ農村が何とか活路をみいだそうという必死の思いをみることもできるだろう。こうした期待は、単に観光という局面だけでなく、より広く地域開発への期待となって膨らんでいった。都市計画のなかで東京郊外の公園、緑地、リクリエーション地帯として三多摩が位置づけられるようになると、これを逆手にとり、三多摩は郊外緑地として東京に必要不可欠なものであり、是非とも東京都制案は三多摩を含んだ形で実現させ、地域の開発と振興をはからなければならないという主張まで現われている(多摩百年史研究会編『多摩百年のあゆみ』)。
 こうしたなか前年に震災復興事業が終了し、また東京市が郊外五郡八二町村を合併し「大東京市」となった昭和七年(一九三二)、この年の十月十日に東京緑地計画協議会が設置され、東京緑地計画のプランニングがスタートする。この計画は、おおよそ東京駅を中心とする五〇キロメートル圏内を対象とするもので、その総面積は東京府とその周辺にまたがる九六万二〇五九ヘクタールにおよぶ。構想では、東京市に緑地を適宜配置するとともに郊外には環状緑地帯と景園地を配し、景園地と都心を結ぶために行楽道路を整備することが目論まれていた(石田頼房編『未完の東京計画』)。このなかで、記念館一帯を含む多摩村や稲城村の丘陵地帯が「南多摩景園地」に指定される。
 こうして三多摩の開発が、東京の都市計画の一環として本格的に位置づけられるようになると、これに対する期待が大きく膨らんだ。なかでも道路網の整備は、久しく待望されたものだった。多摩村の場合、多摩川架橋問題がこれにあたる。多摩川中流域では、大正九年(一九二〇)に多摩川橋、同十五年に日野橋が開通していたが、いずれも多摩村からは遠く隔たり、渡し舟の利用を余儀なくされていた。このため昭和六年に新たな架橋が問題となると、村は熱心にその誘致に動く。この先頭に立ったのは、富沢政賢であった。昭和七年には、富沢をはじめ村長、助役、村会議員などが何度も府庁に足を運び、多摩村に架橋するよう陳情を行っている。そして多摩村が他に比較して優位に立つには、何よりも多摩聖蹟記念館の存在が強く押し出された(資四―93・94)。
 こうした努力が実を結び、昭和七年十一月に多摩村関戸への架橋が決定される(『東京日日新聞』昭和七年十一月二十二日付)。当初計画では、九年度中に工事にはいる予定であったが、測量が遅れたため、工事の着工は昭和十一年三月三十一日となる(『東京日日新聞』昭和十一年四月一日付)。工事には、恐慌対策として多摩村を含めた近隣町村の農民が雇用されたが、農閑期はともかく、農繁期に入ると就労は十分に確保することができなかった(資四―95)。その後、昭和十二年九月三日には工事が終了、竣工式が行われ、ようやく関戸橋は開通を迎える。
 架橋に際しては、新しい橋にどのような名前を付けるのかが問題となった。このとき多摩村は、第一候補に多摩聖蹟橋、第二候補として関戸橋をあげ、結局府は関戸橋と決定している(多摩市行政資料)。多摩村の案は退けられるが、多摩聖蹟橋という名前には、記念館と架橋によせる新たな地域開発への村の期待の大きさをみることができるだろう。実際、昭和十二年(一九三七)五月には京王線の関戸駅が聖蹟桜ケ丘駅に改称している。
 この他多摩村は、昭和十年十二月十七日猟区の設定を農林大臣に申請している。これは村に猟区を設定し、入猟料を徴収するとともに、合わせて村民を案内人として雇用しようというものであった。ちなみに入猟料金は一人五円、案内人給料は一円に設定、巡守一四人と案内人一五〇人を手配し、開始初年度には三五二円の収入を見込んでいた。また鳥獣類が農作物に被害を及した場合には、申請を村会議員六名からなる評議員会で検討し、補償金を支払うことも決められている。猟区の申請は、昭和十一年十一月二十四日に認可を受け、村では早速各区長を猟区の巡守に任命するとともに、案内人の募集をはじめている(多摩市行政資料・小林正治氏所蔵文書)。
 さらに村では、昭和十一年の三月から五月にかけて、風致林と風致林道の整備を府の補助金をうけて実施している(資四―99)。これは、東京府が東京緑地計画を先取りする形で郊外緑地の整備に乗り出し、これらの事業に補助金を交付するようになったためである。この時には、東寺方と関戸に林道が開設され、桜と紅葉の苗木それぞれ二千本、合計四千本の植樹が行われた。
 こうして三多摩各地の地域開発の期待を背負った東京緑地計画ではあったが、日中戦争がはじめられた昭和十二年(一九三七)以降、戦争がエスカレートし、戦時色が濃くなるなかで、この計画は挫折を余儀なくされる。昭和十四年四月二十二日には木戸幸一内務大臣に、昭和二十四年までの十年間におよぶ「東京緑地計画成案」が提出されるが、そのうち実現したのは昭和十五年に「紀元二千六百年」記念事業の一環として造成された、砧、神代、小金井、舎人、水元、篠崎の六大緑地だけであった(前掲『未完の東京計画』)。

図1―9―18 戦前の関戸橋