表1―9―11 多摩村に関連する選挙の状況
年月日 | 当選者 | 落選者 | 多摩村の得票状況 | 多摩村の投票状況 | 多摩村の推定投票率 |
昭和3年2月20日 | 中村亨11819(政友) | 八並武治9913(民政) | 有権者1033 | 84.7% | |
坂本一角11286(政友) | 荒井惣太郎8108(民政) | 投票者875 | |||
津雲国利10244(政友) | 中溝多摩吉4903(政友) | ||||
矢部甚五3242(日農) | |||||
下田金助1481(社民) | |||||
桜井平八593(民政) | |||||
昭和5年2月20日 | 八並武治23793(民政) | 諸江吉五郎6550(政友) | 有権者1011 | 82.8% | |
津雲国利16107(政友) | 中村亨5334(政友) | 投票者837 | |||
坂本一角11600(政友) | 下田金助2249(社民) | ||||
児玉保517(国民) | |||||
昭和7年2月20日 | 津雲国利19447(政友) | 山口久吉14404(政友) | 津雲72 | 77.8% | |
八並武治17733(民政) | 坂本516 | ||||
坂本一角14607(政友) | 山口137 | ||||
八並56 | |||||
無効6 | |||||
昭和11年2月20日 | 八並武治21219(民政) | 坂本一角12289(政友) | 八並143 | 85.6% | |
津雲国利17763(政友) | 中村高一5810(社大) | 津雲134 | |||
山口久吉13001(政友) | 中里弥之助4147 | 山口234 | |||
坂本285 | |||||
中村46 | |||||
中里23 | |||||
昭和12年4月30日 | 八並武治14664(民政) | 坂本一角12571(政友) | 八並93 | 有権者1050 | 84.6% |
中村高一14133(社大) | 小川孝喜11544(政友) | 中村189 | 投票者888 | ||
津雲国利12861(政友) | 山口久吉4168(昭和) | 津雲102 | |||
坂本322 | |||||
小川107 | |||||
山口67 | |||||
年月日 | 当選者 | 落選者 | 多摩村の得票状況 | 多摩村の投票状況 | 多摩村の推定投票率 |
昭和3年6月10日 | 森圓蔵3703(政友) | 奥住相次郎2249(政友) | 森441 | 有権者1015 | 54.4% |
橋本喜市2662(政友) | 武藤清三2164(民政) | 橋本23 | 投票者552 | ||
奥住26 | |||||
武藤33 | |||||
昭和7年6月10日 | 五十嵐孝三3877(政友) | 小谷田弥市2129(民政) | 五十嵐323 | 42.5% | |
横田秀隆3615(政友) | 横田19 | ||||
小谷田82 | |||||
無効7 | |||||
昭和11年6月10日 | 落合元一5906(政友) | 小谷田弥市3157(民政) | 落合122 | 有権者992 | 78.9% |
田代正芳4054(政友) | 田代451 | 投票者783 | |||
小谷田189 | |||||
無効21 |
年月日 | 当選者 | 落選者 | 投票状況 |
昭和4年4月25日 | 横倉與之助・下野延太郎・高野来助・小川二郎・小暮仁兵衛・石坂五三郎・増田啓治郎・藤井富蔵・萩原大助・富澤清斎・平山多四郎・有山貞一郎(民政系) | 柚木林蔵・佐伯利平治 | 有権者数987 |
投票総数915 | |||
無効票数17 | |||
昭和8年4月25日 | 高橋寛重93・佐伯芳雄80・中村元次郎77・高野幾三72・富澤清斎68・杉田啓68・下野延太郎64・寺沢音三郎60・増田啓治郎58・山田富蔵55・萩原利作55・横倉碩之助42 | 伊野庄左衛門(民政系)28・横倉伝吉27・小泉喜三郎1・佐伯利平次1・井上道太郎1 | 有権者数1056 |
投票総数867 | |||
無効票数17 | |||
昭和12年5月10日 | 真藤太一80・杉田啓76・増田啓治郎61・高野幾三60・富澤清斎59・小礒芳三郎57・横倉碩之助56・萩原銀之助54・伊野庄左衛門(無産系)54・市川宗治郎51・持田源助50・加藤平蔵48 | 横倉仙吉47・山田富蔵40・相沢兵吉37・土方武治37・中村元次郎2・萩原健之助1・柚木林蔵1・内田治助1・小林万平1 | 投票総数884 |
有効票数873 | |||
無効票数11 |
「東京日日新聞」、各年度「多摩村事務報告書」、多摩市行政資料より作成。 注)投票率に関して、欠けている数字は前回選挙執行時のものを当てはめて計算した。従ってあくまで目安程度の数字である。 |
普選が実現された当初、当時絶頂期にあった政党政治の二大政党、政友会と民政党は、大量に出現した新有権者の支持を獲得しようと激しくしのぎを削った。この結果、選挙では大規模な買収や乱闘騒ぎが繰り広げられることになる。昭和五年二月の総選挙では、当選した西多摩を地盤とする政友会の津雲国利自身が選挙違反で起訴されたほか、諸江派の運動員や多摩村の坂本派の幹部も検挙されるなど、各陣営入り乱れた大規模な選挙買収が摘発されている(『東京日日新聞』昭和五年四月十三日付)。しかも南多摩郡に根強い地盤を持つ政友会は、大正期に引き続き内部対立にあけくれ、選挙候補者の選定のたびに激しい抗争を繰り返していた。昭和三年の総選挙では坂本一角と中溝多摩吉が公認争いで対立、結局中溝が非公認のまま出馬するという事態になっている(『東京日日新聞』昭和三年一月十日、十二日、三十日付)。
こうした二大政党間の激しい「政争」や政友会の内部対立は、三多摩の各町村にも大きな影響を与えることになる。まず「政争」の激化は、選挙買収や乱闘騒ぎだけでなく、各町村会議員の二大政党への系列化をもたらし、「政争」が各町村会にも波及してくることになる(『東京日日新聞』昭和四年一月十二日、二月十二日付)。さらに南多摩郡の政友会では、坂本派と中溝派の争いが続き、府会議員選挙の候補者選定でも激しい抗争が行われただけでなく、それぞれの地盤の間で激しい地域対立が生じていた(『東京日日新聞』昭和三年五月三十一日、六月二日付)。それまでほとんど全てが政友会系であった多摩村でも、昭和四年の村会議員選挙で民政党系と目される人物が当選している(『東京日日新聞』昭和四年四月二十五日、二十六日付)。
ここにみるような二大政党間の「政争」状況は、三多摩に限らず当時全国的に繰り広げられていたが、これを一変させたのが「非常時」である。金解禁・緊縮財政政策、農業恐慌そして満州事変と政治情勢が激変するなかで、二大政党は徐々に政治的求心力を失い、事態の収拾がはかれなくなる。さらに一連のテロ事件がこれに追い打ちをかける。昭和五年十一月には、民政党の浜口雄幸首相が銃撃されたのに続き、昭和七年二月には浜口・若槻両民政党内閣で蔵相をつとめ、金解禁・緊縮財政政策を推進した井上準之助が血盟団の手により暗殺される。そして、同年五月の五・一五事件では政友会の犬養毅首相が海軍青年将校らの手にかかり、非業の最期を遂げた。この政治的危機を前にして、後継首班を選任する最後の元老西園寺公望は、従来のように政党に政治運営をまかせておくことは出来ないと苦渋の決断を迫られる。犬養の後継には、政党からではなく、海軍出身の斎藤実が就任する。こうして二大政党は、権力中枢の座からすべり落ち、これにかわり「非常時」のもと軍部や官僚の発言力が増大していくことになる。
こうした事態の推移を前にして、三多摩の政治状況も様変わりする。すでに昭和七年二月の総選挙は、「各派とも言論戦で終始・全く珍しい静寂さ」という状況であったが(『東京日日新聞』昭和七年二月二十日付)、同年六月の府会議員選挙ではさらに事態が悪化し、有権者が選挙自体に関心を示さない有様となった(『東京日日新聞』昭和七年六月十一日)。ちなみにこの時の多摩村の推定投票率は、四二・五パーセントという低さである。昭和八年春に各地で行われた町村会議員選挙の際には、「非常時」下での「挙国一致」が強調され、「自治体は政党政治にすべきにあらず」ということから地方議会からの「政党政派の排除」が進行し、「どこも平穏という選挙狂三多摩にとり変った新現象」とまで評されるほどとなった。こうした既成政党離れの傾向からは、かつて「政争の村」であった由木村のように、右翼農民政治団体へと傾斜する動きも生まれていった(『東京日日新聞』昭和八年十月十二日付)。
といっても政党は政治の表舞台から完全に姿を消してしまったわけではない。政党は、依然として内閣の命運を握る政治機関である議会を司る主要な政治勢力であり、軍部や官僚勢力におされつつも、無視しえない権力を保持し続けていた。とりわけ地方政治では、農業恐慌以降の経済更正運動などで顕著となった補助金や助成金の獲得にむけ政党が奔走するようになった(『東京日日新聞』昭和九年九月二十一日、十月四日付)。その一方で、政党幹部のスキャンダルそのものは根絶されず、それどころか利権をめぐって醜悪な抗争が続けられていた。南多摩郡では、昭和十年春に南多摩郡馬匹畜産組合の八王子競馬場をめぐる暴行事件で横田、五十嵐両府議と政友会院外団員が検挙されたのに続き、ほぼ同じメンバーが府中競馬場釘まき事件に絡んで起訴されるという事件が起きている(『東京日日新聞』昭和十年四月二十日、六月三日付)。全国各地で繰り返された政党の醜聞や事件は、激しい非難を浴び、政党の「改革」をはかるとともに自己の政治勢力をより一層拡張しようとしていた官僚、とくに内務官僚たちに「政党浄化」「選挙粛正」の絶好の口実を与えるものとなった。