農業恐慌の克服と各農家の動向

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農業恐慌の淵に沈み込んでいた全国の農村は、昭和十年(一九三五)頃から立ち直りの気配をみせはじめ、昭和十一年にはようやく恐慌の影響から抜け出す。先にみた多摩村の生産価額も、昭和十年には回復の軌道に乗りはじめ、データがないため確定はできないが、昭和十三年には恐慌以前の水準を突破しているところからみて、昭和十一、十二年には恐慌の影響を脱することができたものと思われる。図1―8―10をみると、村税の納入状況も期限内納付の割合が昭和十年には飛躍的にのびており、村民の経済状況が徐々に安定しつつあったことを物語っている。こうした農業恐慌の打撃からの回復は、多摩村ひいては三多摩地方においては、直接的には繭相場の回復によるものだった(『東京日日新聞』昭和十年五月二十八日、十二月二十八日付)。しかし、日本経済全体において恐慌からの脱却過程の主役となったのは、高橋財政のもとで満州事変以来の軍拡と財政スペンディング政策により急速に成長を遂げた重化学工業分野であった。この結果、日本は資本主義国のなかでは例外的な早さで世界恐慌の影響から脱することに成功する。農業の立ち直りは、むしろこれにともなわれてという側面が強かった。
 こうした軍需主導の重工業の発展により、三多摩には多数の関連工場が進出する。すでに大正十一年(一九二二)立川に陸軍飛行場が開設され、その周辺に関連軍需工場が進出していたが、昭和十年には日野町に東洋兵器工業の工場が設けられ、昭和十二年には同じく日野に小西六写真工業、さらに昭和十五年の東京芝浦電気府中工場、日本製鋼所武蔵製作所、昭和十六年の日本小型飛行機府中製作所という具合に次々と軍需関連工場が進出した(斎藤勉「昭和一〇年代の多摩」)。これにより三多摩では、新卒の実業学校卒業生を中心とする青年層が、こうした新出工場に労働力として吸収されるようになる(『東京日日新聞』昭和十一年一月十七日付)。この傾向は、昭和十二年七月七日の日中戦争開始により拍車がかかり、高等小学校在校生といった若年層までもが軍需工場へと向かうようになった(『東京日日新聞』昭和十二年十二月二十九日付)。
 この点に関して多摩村についてみると、表1―9―12に明らかなように若干ではあるが兼業農家が漸増の傾向にあり、労働力の面でも兼業者が増えている。とりわけこうした傾向は、小作農家において顕著であり、従来ならば何らかの形で村内に滞留していた労働力が、兼業という形をとって村外へと向かいつつあったことが想定される。徐々にではあれ、戦争の進展と重工業化という新たな時代の波が、多摩村にも押し寄せつつあった。

表1―9―12 恐慌後の農家の動向

1.農家戸数(単位=戸)
昭和8年 昭和9年 昭和10年 昭和11年 昭和13年 昭和14年 昭和15年
専業戸数 571 561 549 548 431 437 432
兼業戸数 54 47 58 59 192 183 203
合計 625 608 607 607 623 620 635

2.所有別農家戸数比率(単位=%)
昭和8年 昭和9年 昭和10年 昭和11年 昭和13年 昭和14年 昭和15年
自作 20.20 20.40 27.00 26.70 24.20 24.00 23.50
自作兼小作 35.30 35.20 32.30 32.80 42.10 42.50 42.40
小作 44.50 44.40 40.70 40.50 33.70 33.50 34.10

3.所有別兼業率(単位=%)
昭和8年 昭和9年 昭和10年 昭和11年 昭和13年 昭和14年 昭和15年
自作 14.30 12.90 13.40 13.00 30.20 20.80 20.80
自作兼小作 5.40 4.70 7.00 6.50 22.10 21.70 23.80
小作 8.60 7.80 9.30 10.20 47.10 45.70 49.80
全体 8.64 7.70 9.60 9.70 30.80 29.60 32.00

4.農家労働力の状況(1)専業農家(単位:戸数=戸、就業者・従属者=人)
昭和8年 昭和9年 昭和10年 昭和11年 昭和13年 昭和14年 昭和15年
戸数 自作 108 108 142 141 116 118 118
自小作 209 204 183 186 204 206 205
小作 254 249 224 221 111 113 109
合計 571 561 549 548 431 437 432
就業者 自作 324 281 381 396 322 301 302
自小作 722 706 531 531 556 519 514
小作 888 888 588 659 317 312 273
合計 1934 1875 1500 1586 1195 1132 1089
従属者 自作 315 334 355 403 327 317 319
自小作 533 519 534 537 587 489 387
小作 635 657 548 623 306 300 278
合計 1483 1510 1437 1563 1220 1106 984

5.農家労働力の状況(2)兼業農家(単位:戸数=戸、就業者・従属者=人)
昭和8年 昭和9年 昭和10年 昭和11年 昭和13年 昭和14年 昭和15年
戸数 自作 18 16 22 21 35 31 31
自小作 12 10 13 13 58 57 64
小作 24 21 23 25 99 95 108
合計 54 47 58 59 192 183 203
就業者 自作 47 39 73 56 101 91 91
自小作 38 31 44 35 136 126 166
小作 84 63 59 58 233 221 279
合計 169 133 176 149 470 438 536
従属者 自作 55 52 69 73 131 125 117
自小作 31 24 46 45 190 187 227
小作 59 60 77 81 338 328 362
合計 145 136 115 199 659 640 706
出典:各年度『東京府市町村政要覧』より作成。

 こうした生産のあり方の変化は、生活のあり方の変化にともなわれたものでもあった。その一つに自転車の普及がある。南多摩郡では、昭和十年には自転車台数が一万三七九一台に達し、増加する交通事故を防止するため、警視庁が交通指導の徹底を各警察署に指示するまでになっていた(『東京日日新聞』昭和十年十月二十三日付)。一方、多摩村でも、記録の残っている昭和四年(一九二九)の段階ですでに五〇〇台余りの自転車があったが、図1―9―20にみるとおり、農業恐慌後の昭和十二年には七〇〇台、昭和十六年にはこれが一〇〇〇台弱になるまで普及する。この数字は当時の多摩村の総戸数を超えるものであり、一家に一台というだけでなく、必要がある個人がそれぞれ自転車を所有するという時代を迎えていたことを物語っている。昭和十年九月の調査によれば、早朝関戸駅方面には自転車三九台、歩行者三七人の通行があった(資四―130)。もちろん自転車の用途は主として農作業などにあったと考えられるが、自転車を利用することにより人々は従来よりも行動範囲を広げ、これにより家にいて農業に従事しつつも村外へと働きに出ることが可能になったものと思われる。

図1―9―20 多摩村の各種車両保有台数
備考=自動車には自動自転車を含む。
出典:各年度「多摩村事務報告」より作成。

 一方、こうした動向とは裏腹に、農業では統制が強化されていく。昭和七年の救農議会において恐慌対策の一つとして決定された米穀統制法に基づき、東京府では昭和八年(一九三三)夏から小麦の生産検査が府農会により実施されるようになり(『東京日日新聞』昭和八年一月二十七日、五月二十日、七月十一日付)、翌年にはこれが府営となると同時に玄米や木炭にも実施されるようになる(『東京日日新聞』昭和九年四月七日、二十二日付)。その後対象品目はさらに拡大し、昭和十年度からは甘藷と馬鈴薯にも検査が実施されるようになった(『東京日日新聞』昭和十年八月十七日付)。
 この生産物検査を受検するため多摩村には、各地域に受検組合がつくられ、共同受検が行われた。受検の際には、検査の受け方、票箋の記入方法、俵装の仕方などが細かく指示されているほか、生産面でも統制化がすすめられた。昭和十一年十月には、各農家に受検を徹底するため、村は府から係官を派遣してもらい農林産物検査座談会を村内八か所で開催している。受検のため必要な基準に見合った俵の製作も、村の指示により各受検組合を単位として行われるようになった(小林正治氏所蔵文書)。
 しかしこうした統制は、経済の現実のなかではそう計画通りに動くものではない。多摩村では、受検する小麦を各農家から確保するため、「建て前」は統制であるけれども、検査手数料は組合負担、希望によっては時価相場で仕切り、内金を希望する者には時価の八掛けを支払うという「現実的」な方法でこれに対処している(資四―88)。ここにみる「建て前」と「本音」という矛盾を抱えながらも、この後統制は一層強化されていく。そして昭和十二年七月七日の日中戦争開始以降は、戦争遂行のために統制経済が全面的に展開され、このなかで農業統制は食料を確保するための強制的な政策として農村を覆いつくしていくことになる。