関東防空演習

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小山少佐の村葬から一か月後の昭和八年(一九三三)八月、第一回関東地方防空大演習が実施された。演習地域は一府四県に及び、陸軍と海軍が協同作戦を行うというこの大規模な演習は、小山少佐の村葬とともに日常生活のなかで戦争をより身近に感じさせるものであった。
 同年七月二十九日、多摩村消防組は優良消防組として表彰された(『東京日日新聞』昭和八年七月二十一日付)。その一方で満州事変以降、市町村に防護団がつくられている。多摩村でも防護団が結成されたが、それがいつ出来たのかわからない。ただ『多摩町誌』によると、防護団も消防組などとともに、関東防空演習に参加したと記されている。
 演習に先だって、昭和八年三月二十九日、東京府学務部は府下の青年団と青年訓練所に演習への参加と協力を求めた(『東京日日新聞』昭和八年三月三十日付)。多摩村青年団ではそれに呼応して同年五月四日、八王子で開かれた防空演習講習会に、団長ほか数人が出席している(資四―125)。また、五月二十三日に「空都」立川で開催された第六回東京府青年連合大会にも、多摩村から四人の青年団員が参加した。当日大会に出席した藤井伊平は、のちに大会の様子を『多摩青年』一号(土方金一郎氏蔵)のなかで報告している。
 こうして演習前から「防空思想」が鼓吹されたのち、昭和八年八月九日から十一日まで、関東防空演習が実施される。三日間の演習では、空襲警報のサイレンが鳴ると、敵機来襲に備えて白煙の煙幕が張られ、夜は東京を中心に周囲一〇〇キロ以内で本格的な燈火管制が行われた。多摩村でも関東防空演習多摩村本部が設置され、村役場の職員をはじめ在郷軍人分会員や青年団員ら多数が参加し、交通整理、燈火管制などを行っている。
 富沢政鑒(まさみ)は、『多摩青年』一号に寄せた「航空機雑感」のなかで、関東防空演習のことを次のように記している。
 去る八月九、十、十一の三日間に渡つて行はれた関東防空演習は諸君の御承知の如く我帝都を中心として関東地方に於て行はれた最初の者で、規模の大きい事は未曾有のものであつた。他の地方、北九州、大阪、名古屋等ではすでに行はれた事もあるが、今回のとは比較にならぬ程小規模のものであつた。我が多摩村も之に参加して演習の一部たる燈火管制及び交通整理等を実施したが、此の非常時に際して防空の認識を強くしただけでも、非常に有意義の事である。


図1―10―3 関東防空演習を指導した村役場の人たち

 多摩村では、この演習のために一五〇円あまりを、「関東防空演習費」として臨時にあてている。「帝都防衛」をスローガンに「非常時」意識を喚起した関東防空演習は、一方で地域に財政面でも負担を強いるものであった。
 関東防空演習に続いて南多摩郡国防協会多摩村支会が結成された。昭和八年(一九三三)八月二十一日から施行となっている会則では、国防協会の事業として、軍人の後援、軍人遺家族の援護のほかに「国民精神の作興」、国防問題と国際問題の研究とその指導宣伝などが掲げられている(資四―128)。発会式は、南多摩郡国防協会結成後の昭和九年四月二十九日、天長節にあわせて行われた。多摩尋常高等小学校で開かれた発会式には、青年団員の多くが参列し、国防講演に耳をかたむけている(『東京日日新聞』昭和九年四月二十七日付)。また、南多摩郡国防協会が主催する講演と映画会にも、青年団員が出席しており(『多摩青年』三号)、こうして「国防思想」普及のための地域支援団体を通して、軍国主義の思想が植えつけられていった。
 一方『多摩町誌』には、昭和七年十月一日に国防婦人会多摩村支会が結成されたと記されている。同年三月に大阪で発足した国防婦人会は、陸軍の全面的な支援を受けて全国に広がり、ここ多摩村にも波及している。しかし、多摩村では、それまでにあった愛国婦人会多摩村分会の役員と国防婦人会の役員は兼任しており、組織的に重なり合う部分がある。そのため、対立、競合といった現象は見られない。愛国婦人会と国防婦人会という二つの組織が、形式上並存するかたちで活動が続けられ、女性の戦争への動員組織として大きな役割を果たしていった。