青年団員の非常時意識

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満州事変を契機に、国防思想普及運動を全国で展開した在郷軍人会は、地域において戦争支持熱の高揚に最も指導的な役割を果たし、青年訓練所の教練にとどまらず、現役または在郷の将校を招いて講演会を開いたり、非常時意識を喚起するための国防映画会を開催している。特に、帝国在郷軍人会南多摩郡連合分会は、青年団と密接な関係をもっていた。南多摩郡連合分会長・杉田浦次が、在郷軍人第一師管連合支部講演会の席上、南多摩郡連合分会の活動を紹介した次のような言葉のなかからも、そのことがうかがえる(落合支部『雑報』一七号)。
……尚此の際付け加へて御紹介致したきことは私の郡は在郷軍人会と男女青年団との連携融合の非常に密なることであります。総ての事業は御互ひに相扶け合ひつゝ実施し居り、昨今の簡閲点呼等に当りましても暑い忙しい中を我々在郷軍人の為に、男女青年団は早朝より出掛けて湯茶の接待・昼食のオニギリの仕度等真に汗みどろに活動して下さいます。

 多摩村でも、在郷軍人分会と青年団が合同で新年総会を行っており、同時に現役将校の講演も開かれている。このほかに、満州事変二周年を記念した国防思想普及映画会、多摩聖蹟記念館周辺の草刈り、さらに女子青年を含む射撃大会も、合同というかたちで行われている(資四―126・『多摩青年』三号)。
 昭和八年四月には、日清・日露戦争で出征した多摩村の退役軍人らが戦友会を組織し、多摩聖蹟記念館で発会式を挙げている。この戦友会も、在郷軍人分会と同様に、非常時意識を青年団員や小学校生徒などに植えつけることを活動の目的としていた(『東京日日新聞』昭和八年四月十五日付)。
 国防協会、在郷軍人分会、戦友会から「満蒙の危機」「国防思想」を教えこまれた青年団員の意識にも変化が現われ、『多摩青年』創刊号に載った当時の団員の文章から、「非常時」という時代の空気が感じられる。
    農村青年よ更生の中堅たれ
峰岸忠治郎

 我が国現在の情勢は国防に内治に実に多事多難正に非常時である。満州事変突発以来我が同胞は国防の第一線満蒙の地に剣を執り、銃へ(ママ)構へ酷寒零下三十余度炎熱鉄をも溶かす唯(ママ)中に、奮戦苦闘幾多の貴き犠牲を払ひ此処に満州国は建設され満州事変は一段落を告げるに到つた。但し、未だ暗雲は去らず、我が防備生命線擁護は一日として忽に出来ない状勢なのだ。かゝる非常時に直面して我等農村青年の使命は国防に産業に実に重大なるものではなからうか。……

 女子団員にも非常時意識の高揚がうかがえる。落合支部『雑報』十七号(多摩市行政資料)には、次のような文章が載っている。
    非常時の婦人の任務
加藤フミ

……今や我が国の指導者達は『国を焼土と化すとも!』の決意を以つて、如何なる世界の反対をも押し切つて自己の信ずる処へ突進しつゝあります。此の際に当り、私共婦人は、家庭に社会に、その眠りから醒め、安逸の生活を捨てゝ、立つて祖国の運命を背負つて行かねばならぬ重大な時期に直面して居るのであります。……

 満州事変から上海事変へと戦争が拡大し、昭和七年(一九三二)三月には「満州国」の建国が宣言され、翌年三月、日本は国際連盟脱退を通告する。ちょうどこのころ、東寺方には多摩で初めて『読売新聞』の専売店が開設され、地元の東寺方をはじめ、大塚、高幡にまで配達範囲を広げていた(『多摩青年』創刊号、「東寺方地区座談会」)。

図1―10―4 昭和8年ごろの多摩村青年団の役員

 青年団員たちは刻一刻と激しく変化する時代の流れを肌で感じ、肯定的に受けとめながら、この非常時において「私たちは何をなすべきか」と問いかけ、「農村青年」としての自覚を求め合う。
 また変化は、意識のレベルだけにとどまらず、青年団の活動のなかにも現われている。例えば、昭和九年四月八日に小学校で開かれた青年団の第二回雄弁・娯楽大会のプログラムを見ると、先に見た加藤フミの「非常時の婦人の任務」のほかに「非常時音頭」「農村非常時に当り適齢前青年の覚悟」など、「非常時」を掲げた演目が見られる。在郷軍人会、国防協会、戦友会を媒介に、青年団の活動もしだいに戦時意識を反映した内容に変化しはじめていた。