図1―10―5 松岡洋右多摩村訪問の新聞記事
一方、昭和十一年(一九三六)二月、東京にある第一師団の満州派遣が発表された。この決定が引き金となり、師団在京中に二・二六事件がおこる。当時第一師団には、多摩村の青年も入営しており、この事件にまきこまれている。
昭和十一年一月に歩兵第一連隊歩兵砲隊に入営し、事件時には原隊に残って鎮圧軍に加わっていた杉浦正治は、『ふるさと多摩』四号のなかで、二・二六事件のことを回想している。多摩村出身の「郷土兵」が、一時反乱軍と鎮圧軍にわかれて対峙した。反乱軍は帰順し、「郷土兵」同士の武力衝突は避けられたが、この杉浦の手記からは、同郷の親友のことを、終始気づかう苦渋に満ちた複雑な心境が読みとれる。
昭和十一年七月、青年将校ら十五人が処刑されたのち、戒厳令は解除された。同年五月には、第一師団の満州派遣が決定通り行われる。さっそく帝国在郷軍人会南多摩郡連合分会では、同年四月に在満部隊の慰問方法について協議した(『東京日日新聞』昭和十一年四月二十三日付)。青年団落合支部の「昭和十一年会務概要」(多摩市行政資料)を見ると、落合支部でも同年六月に満州派遣将兵慰問協議会を開いている。
また東京府では、昭和十二年一月末まで、満州派遣軍に贈るための慰問袋の募集を行っている。慰問袋には、慰問文や日用雑貨のほか甘味などが入れられ、東京府下の募集目標は、約一万五〇〇〇袋と設定された(『東京日日新聞』昭和十一年十一月二十七日付)。それにしたがい、多摩村でも昭和十一年十二月、村長の呼びかけで区長、在郷軍人分会班長、青年団支部長、同女子部長が集まり、小学校で慰問袋募集の打合せ会を開いている(小林正治氏蔵)。在郷軍人分会と青年団の協力を得て、翌年一月末までに集められた慰問袋は、三月中旬ごろには派遣軍のもとに届けられた。