日中戦争の開始

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昭和十二年(一九三七)七月七日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両軍が衝突した(虚溝橋事件)。七月十一日には、現地の日中両軍の間で停戦協定が成立し、当初日本政府は不拡大方針を掲げていた。しかしその一方で、近衛内閣は内地から三個師団を動員派兵することを決定し、この事件を機に日中間の戦争が全面化する。内地から動員された三個師団の人員は二〇万九〇〇〇人、馬は五万四〇〇〇頭に及び、戦線が拡大するにつれ、その都度大軍が投入された。多摩村でもそれにともない、兵士の召集が相つぎ、農耕馬の徴発も始まる。
 「多摩村事務報告書」によると、昭和十一年には五一人だった在営者は、翌昭和十二年には六八人と急増した。以後、「事務報告書」では兵事に関する記載が省かれているため、昭和十二年を最後に在営者数はわからない。また、戦争が本格化する以前から、南多摩郡馬匹(ばひつ)畜産組合の主催による馬事思想普及宣伝映写会が小学校で開かれていたが、戦争が全面化するとすぐに、多摩村の多くの馬が戦地に送りこまれていった(小林正治氏蔵)。
 例えば、昭和十二年十月に行われた第一師団の昭和十二年度臨時馬匹徴発では、府中の明星中学校を差出場所にして各地から数多くの馬が動員されている。第一師団作成の「臨時徴発馬匹差出日割表」(多摩市行政資料)によると、多摩村の馬匹徴発数は乗馬、駄馬あわせて三九頭であった。全体的に見て、南多摩郡下の町村に割り当てられた徴発数は多いが、なかでも多摩村が他町村に比べて一番多かった。さらに、第一師団が作成した昭和十五年度の動員計画では、多摩村内にある二台の自動車が、徴発自動車名簿に載っている(多摩市行政資料)。

図1―10―6 馬匹徴発告知書

 こういった戦争動員に呼応して、青年団では婦人会と協力し、千人針と慰問文を作成して、つぎつぎと召集される青年たちの無事を祈った。できあがった千人針と日の丸の寄せ書きを手に、出征を祝う幟旗が林立するなか、出征兵士は村の多くの人たちに見送られて、戦地へと出発していった。
 多摩村内で最も多くの応召者を出した落合地区の横倉千鶴子は、多摩村青年団落合支部の活動を紹介した文章「小さき歩み」(多摩市行政資料)のなかで、次のように書いている。
 昨年七月支那事変突発以来○○名の出動軍人を送り、村内一番多くの応召者を出して居ります関係から、一層応召将兵各位の家庭に対する奉仕の念を痛感し、その慰問を始め、村内愛国婦人会・国防婦人会各分会並に各種団体と協力致しまして、応召兵の歓送、千人針・慰問袋・慰問文の作成発送、或は古い新聞・雑誌・書籍等の不用品集めのお手伝いに力を致し、……

 また、ここにあがっているもののほか、陸海軍に現金を献納する国防献金や金貨、金歯までも献納する「金総動員」といった、さまざまな銃後の戦争協力活動もはじめられた。戦争がはじまって一か月後の昭和十二年(一九三七)八月十八日には、多摩村国防協会が出征兵士の家族を招待し、多摩尋常高等小学校で「国防映画の夕」を開催している(多摩市行政資料)。同年十一月二日には、対鴎荘で出征家族の慰安会が開かれた(「多摩聖蹟記念館日誌」多摩市教育委員会蔵)。南多摩郡仏教会でも、昭和十三年十月から戦没者に対する読経を定期的に行うとともに、各町村別に「托鉢(たくはつ)報国」を実施している(『東京日日新聞』昭和十三年十月六日付)。こうして、各種団体も慰問活動に力を注いでいった。
 ニュース映画が多摩村も巡回し、内閣情報部選定の「愛国行進曲」をはじめとする「官選歌」や軍歌が戦勝気分を盛り上げる一方で、戦争は村民の生活に暗い影をおとしていた。戦線が拡大するにつれ、無言の「帰還」が相つぐ。戦死者と戦傷者が発表されると、新聞は顔写真入りで、家族構成、家族のコメントも含めてくわしく伝えた。
 多摩村が作成した「満州支那事変戦死病没者調」(多摩市行政資料)によると、昭和十三年九月三十日までの多摩村の戦死病没者は三人となっている。戦地から遺骨となって帰ってくる戦死者は「英霊」として崇められ、戦死そのものが美化されていく戦争気運のなかで、遺族は内心の悲しみを率直に表わすことができなかった。ただ、盛大に執行される村葬での感情をおし殺した重苦しい葬列風景のなかに、残された人たちの深い悲しみが満ちあふれている。日中戦争は、このように多摩村民の生活にも大きな変化をもたらした。戦争への民衆動員の新しい行事が、従来の生活スタイルのなかに加わっていく。