国民精神総動員運動

552 ~ 555
昭和十二年(一九三七)八月、近衛内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、九月から国民の戦争協力を恒常的に引きだすための組織的運動「国民精神総動員運動」が展開される。同年十月には、内閣の外郭団体である国民精神総動員中央連盟がこの運動の推進団体として結成された。各道府県と市区町村にも、それぞれ地方官庁が協力するかたちで、地域の有力者で構成される国民精神総動員実行委員会が設置され、上からの組織化が進められていった。多摩村でも実行委員が選任され、この運動を地域で支えている(多摩市行政資料)。
 国民精神総動員運動は、さっそく昭和十二年十月に国民精神総動員強調週間、翌年二月には肇国(ちょうこく)精神強調週間を実施し、精神運動に力が注がれた。その一方で、運動の趣旨を普及、徹底させるため、昭和十二年十月には市区町村長会議、学校長会議、市区町村関係主管課長会議、中央から講師を招いての講演会などが開かれている。例えば、八王子と南多摩郡合同の講演会は、昭和十二年十月に開催され、吉田茂と米田実が講師として招かれた。翌昭和十三年三月二十四日には、多摩村でも国民精神総動員と自治振興の講演映画会が行われている。この講演映画会は、児童と一般対象の二つに分けて開かれ、子どもたちが終わってから、一般村民向けの講演映画会が開催された。
 昭和十三年三月に開かれた八王子市と三多摩郡町村の庶務主任会議では、自治制発布五十周年記念事業について協議している。それにしたがい同年四月から五月にかけて、自治制発布五十周年記念式を各市町村で開催し、自治功労者の表彰が行われた(東京府国民精神総動員実行部『東京府国民精神総動員実践事項ノ概要(未定稿)』東京都立大学図書館蔵)。多摩村で、いつ記念式が開かれたのか不明であるが、昭和十三年度の多摩村決算によると、国民精神総動員費から一部補充するかたちで、自治制発布記念費として七八円あまりを支出している。
 また、このほかに出征兵見送り、遺骨の出迎え、村葬参列、勤労奉仕班の組織、部落座談会と協議会の開催も、国民精神総動員運動の実践事項として早くから挙げられていた。なかでも、働き手を失った応召遺家族の農作業を手伝う勤労奉仕班は、昭和十二年十月から地区単位につくられ、同年十二月までに東京府全体で八割組織されている(前掲『東京府国民精神総動員実践事項ノ概要(未定稿)』)。この勤労奉仕班も、自治制発布記念式と同様に、いつ多摩村で組織されたのか正確なことはわからない。ただ、昭和十三年一月二十七日には、多摩、七生、日野の各町村の勤労奉仕班長協議会が七生村役場で開かれていることから、それまでには多摩村の勤労奉仕班も組織されていたと考えられる(『東京日日新聞』昭和十三年一月十五日付)。
 精神運動に力が注がれた国民精神総動員運動も、日中戦争の長期化にともない、愛国公債購入運動、貯蓄報国運動、一戸一品廃物献納運動といった戦時経済への協力運動へとしだいに変化していく。昭和十二年十月、七生村(現・日野市)でいち早く実施された護国貯金は、その後多摩村でも奨励された。昭和十三年七月には「支那事変」一周年を記念して、多摩村で一戸一品献納運動が実施されている。この運動での売上金の合計は七八円あまりであったが、国民精神総動員実行委員だけでなく消防組、在郷軍人分会、青年団の人たちも出動して各戸を回った(資四―132)。
 このように、「国民精神総動員」と銘打ったさまざまな行事が上意下達の方式で行われることで、運動を担う地域の住民組織の整備も進んだ。昭和十四年(一九三九)十月、多摩村に国民精神総動員運動の「実践網」として、部落常会が誕生している(多摩市行政資料)。多摩村の部落常会の普及は、元八王子村(現・八王子市)と並んで府下では早い動きで、同年十二月には、落合、連光寺、和田、東寺方、乞田、一ノ宮、貝取、下川原、関戸、船ヶ台の各地域で常会を開き、農村問題についての講習が行われた(『東京日日新聞』昭和十四年十一月二十五日付)。

図1―10―7 八王子公会堂での南多摩郡町村長常会

 日中戦争が始まって三年後の昭和十五年七月七日、帝国在郷軍人会多摩村分会長・加藤彦五郎は、前線にいる「郷土兵」にむけて武運長久を祈り、次のような文章を書き送っている(多摩市行政資料)。
拝啓 村では養蚕・麦の収穫も上々吉、第一線への方々或は工場・職場の者などで、若干の手不足も小学校児童部隊・部落勤労奉仕部隊が出動しての此の成果、国民精神総動員運動の実践網・部落常会も昨秋以来毎月開催、六月十日の府会議員の選挙も粛正、無事に終って物資の配給機構は七月一日東京府民調査によって完備、支那事変勃発三週間遙かに御労苦を偲び御健闘を祈り上ます。

 政府が展開した国民精神総動員運動は、こうして多摩村にも影響を与え、村民を戦争に協力させる体制が作られていった。その後、官僚主導、形式主義と批判されて行きづまった国民精神総動員運動は、大政翼賛会の運動に引き継がれていくが、多摩村では国民精神総動員運動の過程で生まれた勤労奉仕班と部落常会が残り、活動を続けている。