銃後の守り

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日中戦争の開始後、多摩村では出征遺家族のための慰安会が開かれているが、しだいに応召兵士と戦死者が増えていくなかで、働き手を失った応召遺家族の生活をどう地域で支えていくかという課題に直面する。
 これまでも青年団員と小学校生徒、そして国民精神総動員運動の過程で部落ごとに生まれた勤労奉仕班が、早くから応召遺家族の農作業を手伝っていたが、さらに発展して下野延太郎村長を所長とする軍事援護多摩村相談所が設置された。『多摩町誌』では、昭和十三年十一月一日に開設されたと記載されている。「軍事援護多摩村相談所規程」(多摩市行政資料)によると、軍事援護多摩村相談所は軍事援護東京府中央相談所の指導の下に置かれ、所員すべて村役場の関係者で構成されていた。応召遺家族の生活扶助の問題、特別賜金をめぐる紛争などの相談について兵事主任の係員が窓口で答え、難しい問題については相談所員の合議の上で解決策を与える。軍事援護多摩村相談所はこうして村役場の主導で各種問題に関する相談、紛争の調停を実施した。しかし実際のところ、在郷軍人分会班長に相談するケースが多く、軍事援護相談所の利用者は減っていく。役場の門をくぐり、顔見知りの職員に相談することは、応召遺家族にとって抵抗があった(『東京日日新聞』昭和十五年三月十三日付)。
 昭和十四年(一九三九)一月、銃後奉公会の全国設置の訓令が出され、多摩村にも銃後奉公会が同年十二月一日に発足する(『多摩町誌』)。多摩村銃後奉公会は、軍事援護多摩村相談所と同様に村長が会長に就任しているが、相談所よりも事業を広げ、そのため補助金と寄付金だけでなく、村内の全世帯主を正会員とし、事実上強制参加のかたちで会費を徴収した(資四―135)。多摩村銃後奉公会の「昭和十七年度決算・事業報告書」(多摩市行政資料)によると、会員は九二〇人、会費は毎月五銭で、常勤の書記が置かれ、出征遺家族の慰問や労力奉仕などを行っている。また、軍事援護相談所費として相談員への手当も、多摩村銃後奉公会から出ている。軍事援護多摩村相談所は多摩村銃後奉公会へと発展していくが、銃後奉公会発足後も応召遺家族への生活相談窓口としての活動は続けられていた。多摩村が東京府に提出した「支那事変ニ関スル事務関与者等調査ノ件」の控えによると、昭和十五年四月の時点で軍事扶助法による多摩村内の扶助人員は六三人となっている(多摩市行政資料)。
 一方、防空演習は満州事変後から実施されていたが、昭和十二年四月の防空法の公布により、多摩村でも繰りかえし行われるようになった。演習で警報が発令されると、防護団員は詰め所にかけつけて警備につき、伝令が本部からの情報を伝える。そして、仮想敵機である自転車に乗った兵事主任が、赤い旗を立てて「焼夷弾落下」と叫び、そこを目標にして、女性たちのバケツリレーによる消火訓練が始まる。負傷者の運搬、さらに演習終了後の食事の準備も行われ、防護団だけでなく消防組、在郷軍人分会、青年団、婦人会も参加させられた。

図1―10―8 防空演習で集まった関係者

 昭和十四年一月には警防団令が公布され、同年四月の施行により、消防組と防護団は警察の指揮の下、警防団に統合される。それにともない同年四月二十九日、多摩村警防団は結成式を挙げた(『東京日日新聞』昭和十四年四月二十九日付)。設置された多摩村警防団は九つの分団からなり、団員数は三九二人と全世帯数の半分に近い(資四―134)。団長には下野延太郎村長が就任している(多摩市行政資料)。以後たびたび行われた防空訓練では、警防団が中心的役割を果たし、村民を防空、防火活動に動員していった。