地域組織の整備

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昭和十三年(一九三八)四月一日、近衛内閣は国家総動員法を公布した。この法律により、政府は議会の承認なしに勅令で戦争のためにあらゆるものを独占的に運用、統制できるようになる。その結果、すべてが軍需優先とされ、日常生活に必要な日用品が不足し、人びとは戦争により生活を切りつめなければならなくなった。昭和十五年、政府は生活必需品の配給制に踏みきり、同年六月から砂糖とマッチの切符制を実施する。その後、年を追うごとにその品目は増えていった。「ぜいたくは敵だ」というスローガンのもと、不足する衣料の簡素化も進む。同年十一月には、背広に代わるものとしてカーキ色(国防色)の国民服が制定され、昭和十七年二月からは衣料品の点数切符制がとり入れられている。

図1―10―9 砂糖の配給切符

 一方、こういった切符や通帳による配給は、隣組という組織を単位として行われた。内務省は昭和十五年九月、訓令で部落会・町内会・隣保班・市町村常会整備要綱を通達し、市町村長―部落会または町内会―隣組という縦割りの地域組織が制度化される。このうち、農村には部落会、都市では町内会が置かれ、上からの通達を徹底させるために、各段階には常会という定例の集会を開くよう指示された。配給のみならず、ふくれ上がる軍事費をまかなうための国債消化の割当から、防空演習と勤労奉仕への動員、金属の回収まで、生活にかかわるありとあらゆることが隣組を通して行われる。そしてその連絡のために、回覧板がひんぱんに回された。人びとは、生活必需品の配給ルートである隣組を離れて生活することができず、隣組は民衆を戦争へと動員する末端組織としての機能を果たしていく。
 多摩村では、すでに国民精神総動員運動の過程で部落常会ができていたが、内務省の訓令を機に地域組織の整備がさらに進められた。まず、多摩村の下には部落会が置かれ、その下に班、さらに隣組が設置されている。「常会連絡員担当表」(多摩市行政資料)を見ると、昭和十六年四月の時点で関戸(第一~第六)、連光寺(第一~第九)、和田(第一~第四)、一ノ宮(第一・第二)、東寺方(第一~第六)、貝取(第一・第二)、乞田(第一~第四)、落合(第一~第五)と合計三八の班があった。この数は国民精神総動員実行委員受持区の数とほぼ重なり合うが、それでも関戸と東寺方では四から六に、連光寺では八から九に増えていることから、地区によってはこまかく分けられていたといえよう。また、東京府翼賛壮年団がまとめた『府団一ヶ年の回顧』(東京都立大学法学部研究室蔵)によると、部落会の数は一一、隣組の数は一一八であった。
 このほか多摩村では、五二人の村常会員、四二人の推進員(村常会員と重複する者もいる)、村常会で決まったことを部落常会などに伝える連絡員も置かれている(多摩市行政資料)。それぞれの常会には定例日が決められており(資四―137)、優良とされた唐木田常会の報告書を見ると、皇居遥拝・出征兵士への黙祷が行われ、一人ひとり貯蓄目標額を設定していることがうかがえる(多摩市行政資料)。こうして村長を頂点に、部落会―班―隣組という縦割りの組織ができあがっていった。
 ところで、この多摩村常会員のなかには、朝鮮出身者が一人含まれており、推進員も兼ねていた。もともと多摩村には、多摩川の砂利採取に従事する在日朝鮮人が多く、昭和五年の国勢調査でも、「外地人」の数は南多摩郡の中で由井村(現・八王子市)につぐ一一一人となっている。日中戦争がはじまると、関戸に住む朝鮮人二〇人で組織する多摩村報国会が国防献金をして、劣悪な環境のもと「忠良な日本臣民」であることを示そうとしていた(『東京日日新聞』昭和十四年五月十二日付)。そして、昭和十五年九月には、同じく関戸在住の朝鮮人一五〇人あまりが、自分たちだけの部落常会の結成に乗り出している(『東京日日新聞』昭和十五年九月八日付)。おそらく、この部落常会の代表者が、多摩村常会に参加しているのではないかと考えられる。