食糧の増産

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軍需優先で食糧が不足していくなかで、農村に求められた課題は主要食糧の供給であった。食糧不足の問題に対し政府は、昭和十四年度から米、麦、いも類などの生産目標を設定する戦時食糧増産計画をたてて、増産運動を展開する。多摩村の農業も戦争とともに、主要食糧の供出割当にこたえるため変化していった。
 政府が強制的に農家から生産物を買い上げる供出では、政府―帝国議会―道府県農会―市町村農会―農事実行組合という順に割当数量が伝えられる。多摩村でも、村農会から農事実行組合を通して、すべての農家にもれなく通達された(横倉舜三『多摩丘陵のあけぼの 前編』)。この供出制度により農民は、収穫物を自由に売ることができないどころか、もし供出割当の数量に達しなければ地区の連帯責任とされ、「非国民」扱いを受けるというプレッシャーを常に負っていた。多摩村では昭和十三年(一九三八)十二月に、兵士の衣料となる軍用兎と、酒精(アルコール)原料とする切干甘藷(かんしょ)を供出している(『東京日日新聞』昭和十三年十二月二日付)。米の供出は昭和十四年十一月の米穀配給統制応急措置令の公布によりはじまり、その後食糧の国家管理はいっそう強まった。供出対象は麦、いも、大豆、雑穀にまで及び、これら個別規制の法令をまとめ、昭和十七年二月に食糧管理法が公布された。
 しかし一方で、戦争によって兵士の動員と農耕馬の徴発が進み、農村における労働力は不足し、自給肥料さえままならない。そのうえ、軍需産業への転換も進んだため、農機具や化学肥料までも農村では不足していた。なかでも、肥料不足の問題は、南多摩郡においても大きな問題となっており、南多摩郡農会では昭和十四年三月に、堆肥増産のための実地指導幹部講習会を開いている(『東京日日新聞』昭和十四年三月一日付)。南多摩郡馬匹組合でも、厩肥(きゅうひ)増収のため郡下二一か所に厩肥舎を設置し、多摩村では黒田彌三郎と森久保芳太郎の両家が協力している(『東京日日新聞』昭和十四年三月十五日付)。
 このような状況の下で、多摩村の増産指導に取り組んでいたのは、南多摩郡農会から派遣された村役場駐在の技術員であった。昭和十六年の時点で、多摩村には二人の郡農会駐在技術員がいる(多摩市行政資料)。この郡農会駐在技術員は、東京府農会や南多摩郡農会が推進する共同作業・共同炊事の指導講習会に参加し、ときには先進地を視察した上で、それぞれの地域に戻って実践に移していった。昭和十五年七月には、関戸、一ノ宮、乞田の三つの地区で共同作業が行われ、話題になっている(『東京日日新聞』昭和十五年七月十六日付)。南多摩郡農会ではまた、同年九月に代用食講習会を開いて、農村への普及に乗り出している(『東京日日新聞』昭和十五年九月十日付)。各家庭にむけて作成した献立表には、「国策月見だんご」「満州式蒸しパン」と名づけられた小麦粉とじゃがいもを基本とする代用食の作り方が掲げられ、米の節約が呼びかけられた(小山トモ子氏蔵)。
 このほか郡農会駐在技術員とともに、村のレベルで増産運動を支えていた組織として、産業組合青年連盟多摩連合がある。産業組合に所属する青壮年によってつくられた産業組合青年連盟では、日中戦争後「協同報国運動」を提唱していた。多摩連合でもそれに呼応して、増産のための肥料試験地の設置、先進地の視察、帝国農会から講師を招いての研究会を行っている(多摩市行政資料)。
 昭和十五年からは、農林省と農業報国連盟の主催で、全国の農村から青年を集めて農業増産報国推進隊を結成し、一か月間の訓練が行われている。農村における中堅人物の養成を目的としたこの訓練は、毎年茨城県の内原訓練所で実施され、出発前に激励式を開いてもらった隊員たちは地元の期待を背負って参加していた。訓練では専門家による講演、作業、武道教練、座談会などが組まれ、「皇国農民精神」「農民魂」が強調されている(『東京日日新聞』昭和十五年十二月二十一日付)。多摩村からも、昭和十五年に小形茂と山口正太郎が、昭和十六年に横倉舜三が参加した(『東京日日新聞』昭和十五年十二月十七日付、昭和十六年十二月十日付)。このように食糧問題が悪化していくにしたがい、「皇国精神」を強調することで、農民の増産意欲をかきたてようとしている。

図1―10―10 内原訓練所での農業増産報国推進隊員