多摩村では、紀元二千六百年記念事業として役場庁舎の改築を決定し、財源確保のため昭和十五年二月に積立金設置規程を村議会で議決している。この規程は、毎年度末の決算の際に、次年度繰越金から一割以上を積み立てるという内容であった。昭和十四年度より始められ、初年度は紀元二千六百年にちなんで二六〇〇円を積み立てている(資四―136、『東京日日新聞』昭和十五年二月十六日付)。
小学校でも記念事業が企画され、南多摩郡小学校長会では昭和十五年九月に、紀元二千六百年の記念事業について話し合われた。そこでは、少年団連合大会、連合武道大会、橿原(かしはら)神宮の参拝、記念植樹などが実施予定の事項として挙がっている(『町田市教育史 上巻』)。ここでとり上げられた紀元二千六百年奉祝南多摩郡学校少年団連合大会には、多摩尋常高等小学校からも参加している(『東京日日新聞』昭和十五年九月五日付)。
一方、青年団では紀元二千六百年記念事業として、落合にある白山神社の広場の整地を行った。整地が完成した昭和十五年(一九四〇)十一月二十六日には、白山神社で記念祝賀行事が開かれている。レコードによる歌謡舞踊と剣舞から、昔から伝わる粉屋踊り、三番叟、獅子舞も披露され、青年たちをはじめ村の多くの人たちが祭りに加わり、つかの間の娯楽を楽しんだ(峰岸松三「想い起しの記 第七巻」)。また、東京府連合青年団の記念事業にも、青年団の代表が参加している。例えば、昭和十五年五月、東京府連合青年団が主催した橿原神宮参拝旅行の参加者のなかには寺沢鍈一の名前がある(『東京日日新聞』昭和十五年五月十日付)。神武天皇をまつる奈良県の橿原神宮は、当時「建国の聖地」として崇められ、全国から多数の参拝者を迎えていた。
図1―10―11 「紀元二千六百年」祝賀行事での神社総代と落合青年
さらに、昭和十五年度の多摩村決算を見ると、紀元二千六百年記念費として八一円五〇銭を出しており、そのなかには献木費という項目がある。これはおそらく、政府の外郭団体である紀元二千六百年奉祝会の献木募集に応じていたものと考えられる。この献木とは、橿原神宮などの整備にあわせて、境内に植える樹木を国民が一致協力して献納しようというものであった(『東京日日新聞』昭和十四年二月七日付)。このほか村では紀元二千六百年を記念して、品評会が小学校で開かれ、農作物部門と手芸部門あわせて二四〇点あまりの出品があったという(『写真で綴る多摩一〇〇年』)。
このように、紀元二千六百年の祝賀行事は神話を強調して国民の統合をはかる機会であったが、一方で村民にとっては戦時下で娯楽を楽しむことのできる機会でもあった。その後人びとは一段と厳しい統制のもとに置かれていく。