満州開拓と多摩村

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第一師団が満州に移駐した昭和十一年、政府は二〇年間に一〇〇万戸を満州に送り出す満州農業移民計画を発表した。それ以後、農業移民が推進され、昭和十三年には茨城県の内原訓練所で訓練を受けた青少年を移民させる満蒙開拓青少年義勇軍が組織される。
 東京府では、日中戦争の開始後、満州開拓の農業移民を養成する訓練施設の新設に乗り出し、その第一の候補地に挙げられたのが、多摩川をのぞみ、起伏に富む多摩村であった。新聞によると、多摩村への用地買収の話ももち上がっている(『東京日日新聞』昭和十二年十二月十四日付)。しかし結局、東京府拓務訓練所は七生村(現・日野市)に建設され、昭和十四年四月に開所した。同年十一月には、満州に駐屯する日本軍を慰問するため、東京府が慰問団を組織している。下野延太郎村長は、その代表者の一人に選ばれて満州に渡った(『写真で綴る多摩一〇〇年』)。
 南多摩郡農会と南多摩郡女子青年団でも、同年十一月に、郡内の女性を対象とする農村婦人修練講習会を内原訓練所で開いている。満州移民の必要を説き、将来満蒙開拓青少年義勇軍の花嫁となる「大陸の花嫁」を多数送り出すことを目的としたこの講習会には、七〇人をこえる女性が二つの班に分かれて参加した。「内原見学の栞」(多摩市行政資料)によると、多摩村からは伊野トリ子、小形尚子、尾形キミ、佐伯ナミ子が第二班に加わり、十一月十五日から四日間の講習を受けていることがわかる。講習会の全日程終了後の十二月四日には、南多摩郡公会堂で参加者の体験報告の座談会が開かれた。内原での講習を通して、所長・加藤完治の気概と青少年義勇軍の自信に満ちた態度に圧倒された参加者たちは、大陸進出を呼びかけるとともに、現地の視察を求めている(『東京日日新聞』昭和十四年十二月五日付)。この女子青年の渡満視察計画は、翌昭和十五年六月には実現する。東京府連合青年団が、満州移民の生活を十分に認識させるため、各郡市の女子二〇人からなる興亜女子青年報国隊を派遣した(『東京日日新聞』昭和十五年五月九日付)。
 それに対して、男子青年団員の満州派遣は、興亜青年勤労報国隊の名称で昭和十四年(一九三九)からはじまっていた。昭和十五年度には満州建設勤労奉仕隊と名が改められ、文部省が隊員募集、拓務省が訓練および輸送、農林省が生産物の処理を担当し、全国から八六九〇人の青年が集まった(『大日本青少年団史』)。多摩村からも、加藤喜一と峰岸松三が参加している。峰岸の手記「満州建設勤労奉仕隊記録」(峰岸松三氏蔵)によると、昭和十五年三月に、峰岸は「村のため国のため」と懇願されて、参加を決めたという。出発の前には、南多摩郡の壮行会が八王子で行われ、当日は出征兵士と同様に白山神社で村長の激励のあいさつを受け、駅まで見送られている。この奉仕隊は、五月二十三日から約二か月間、チチハルとハルビンの中間に位置する大草原の駐屯地で、警備、防護壁づくり、道路工事、農耕、地下壕掘りなどの作業に追われた。このように表面上は「志願」という形をとっていても、実態は上からの通達による動員で、軍役奉仕が課せられていた。

図1―10―12 満州建設勤労奉仕隊の作業風景

 昭和十六年には、東京府青少年団が陸軍軍役奉仕北満派遣隊を送っている。この派遣隊も、三月二十八日から約一か月間の日程で、奉天・撫順・ハルビンなどを訪れ、射撃場構築の勤労奉仕のかたわら、満蒙開拓青少年義勇軍の作業の見学、「郷土兵」の慰問、ソ満国境の視察を行った。指導者四人と青年団員五〇人が参加した派遣隊には、多摩村から萩原利光と金子梅男、そして指導者として寺沢鍈一が加わっている(東京府青少年団事務局編『勤労奉仕・軍役奉仕概況報告書』多摩市行政資料)。外地における軍隊教育を通して、大陸の実情を知り、銃後奉公の意識を高める。満州は、農村青年の時局認識を徹底させる場となっていた。

図1―10―13 東京府青少年団北満派遣隊

 また南多摩郡農会では、昭和十五年十一月、下野延太郎村長、濱田恵治七生村長、前田林太郎恩方村長ら渡満経験者を集めて、移民報国会を結成している。発会式後の協議では、分村計画以上の南多摩郡各町村を含む「満州分郷計画」が論じられ、移民問題に対する積極的な姿勢がうかがえる(『東京日日新聞』昭和十五年十一月九日付)。
 しかし、戦争の進展とともに満州移民の確保は困難をきわめ、南多摩郡では七生村の分村計画が実践されただけで、敗戦を迎えた。現在旧多摩聖蹟記念館のある都立桜ヶ丘公園の正門右手には、開拓自興会が昭和三十八年(一九六三)八月に建てた満州開拓殉難者慰霊「拓魂碑」がある(朝倉康雅『嗚呼 満州東京報国農場』)。