大政翼賛会の成立後、地方支部組織の整備が進み、南多摩郡支部も翌昭和十六年三月に結成された(『東京日日新聞』昭和十六年三月十八日付)。多摩村からは杉田浦次が理事に、下野延太郎と稲葉良仁が協力会議員に選ばれている(『東京日日新聞』昭和十六年二月二十八日付)。同年三月二十日には、大政翼賛会多摩村支部の結成式が開かれた。式次第には、開式・宮城遥拝・国歌斉唱・黙祷・支部長挨拶・告辞(東京府支部長)・祝辞・万歳奉唱・閉式と記されており(多摩市行政資料)、川西実三東京府知事が告辞を行っている。理事は杉田浦次、寺沢鍈一、高野幾三、伊野英男、新田磯右衛門に、顧問は富沢清斎、稲葉良仁、増田啓次郎、横倉頼助にそれぞれ委嘱された(『東京日日新聞』昭和十六年三月十二日付)。
図1―10―14 川西実三東京府知事の告辞
昭和十六年(一九四一)十二月八日、海軍の機動部隊はハワイの真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まる。英米両国への宣戦の詔書は正午からラジオで放送され、その後各地で戦勝祈願が行われた。帝国在郷軍人会南多摩郡連合分会でも二日後の十日、郷軍大会を開いて宣戦の詔書を奉読し、戦勝祈願のために多摩御陵を参拝している(『東京日日新聞』昭和十六年十二月十日付)。
開戦後、日本軍はグアム島、香港、マニラとつぎつぎに占領し、伝えられる緒戦の戦勝報告は国民を沸かせた。なかでも、マレー半島を南下した日本軍が昭和十七年二月にシンガポールを占領すると、人びとは熱狂し、多摩村でも同月十八日に戦勝祝賀行事が繰り広げられた。伊野富佐次の「備忘録」には次のように記されている。
二月十八日曇、去ル十五日午後七時シンガポール陥落。全国一般、本十八日ヲ以テ祝賀日ト決定セラレ、我多摩村ニテモ村民一同参列。多摩国民学校庭ニ於テ、午後二時ヨリ祝賀式挙行セラレ、区民一同ト共ニ参列ス。
落合区の「昭和十七年度区費精算帳」(田中登氏蔵)にも、二月十八日付で「シンガポール陥落祝酒代」として七円一七銭支出と記載されている。
戦勝ムードで盛り上がる一方、村からの応召者は増えつづけていた。「支那事変ニ関スル事務関与者等調査ノ件」(多摩市行政資料)の控えによると、昭和十五年四月の時点で、多摩村の応召人員は一四七人、出征人員二七六人、徴発馬匹は三九頭に達している。それに対して、日の丸の旗や大小の幟旗が林立するような応召兵士に対する盛大な歓送は自粛されていた。昭和十三年九月には、「資源愛護」の点から歓送迎用の旗と幟の廃止を求める通知が、帝国在郷軍人分会麻布支部長から多摩村長宛に届き、昭和十六年七月には、海軍次官が東京府学務部長を通じて村長に対し、「軍機保護」の名のもとに旗と幟の廃止はもちろんのこと、歓送を家族や親類などごく内輪にとどめるよう求めている(多摩市行政資料)。
戦死者も同様に増えつづけ、昭和十五年四月の時点で、村内の戦死者は九人、戦傷者二八人、戦病者四三人に及んでいたが、新聞記事では日中戦争がはじまったころのように大々的にとり上げられず、小さな扱いとなっていった。多摩村では昭和十七年四月、陸海軍人の「病死者」を部落葬とする決定を行っている(資四―143)。