戦時行政の整備

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国民精神総動員運動と変わらず上意下達の性格を強めていた大政翼賛運動への不満を背景に、昭和十七年(一九四二)一月、大日本翼賛壮年団が結成される。この大日本翼賛壮年団は、大政翼賛運動の「実践部隊」として全国に支部組織をもち、翼賛選挙での活躍が期待されていた。大日本翼賛壮年団本部の『府団一ヶ年の回顧』(東京都立大学法学部研究室蔵)には、多摩村翼賛壮年団は昭和十七年三月十四日に組織され、団長に杉田浦次、副団長には寺沢鍈一と小山玉治が就任し、同年八月現在の団員数一三〇人と記載されている。南多摩郡翼賛壮年団の総務には、多摩村から杉田浦次が選ばれた。各支部組織には団則が定められ(資四―141)、同年三月二十六日に高幡不動尊で、町村幹部役員の練成会が開かれている(『読売新聞』昭和十七年三月十九日付)。
 一か月後に実施された総選挙では、議会を御用議員でかためるため、初めて候補者の推薦制がとり入れられた。政府は大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、在郷軍人会などを動員し、常会を通じてこの推薦制の意義を宣伝する一方で、非推薦候補に対する激しい選挙干渉も行った。昭和十七年三月二十九日には、大政翼賛会東京府支部主催による「大東亜戦完遂翼賛選挙貫徹移動映画会」が、多摩村で開かれている(『東京日日新聞』昭和十七年三月三日付)。また、昭和十七年度の多摩村決算を見ると、「翼賛選挙費」として三四二円があてられている。
 多摩村での各候補者の得票状況は、表1―10―2の通りであった。表1―10―1の無産政党が躍進した前回の結果と比べてみると、まず非推薦の中村高一の得票が半減している。それだけでなく南多摩を地盤とする坂本一角までも、推薦候補でありながら得票率を半分に減らした。それに対して、青梅を中心に西多摩に勢力をもつ津雲国利が、多摩村で五倍も得票数を伸ばしている。
表1―10―1 昭和12年総選挙の各候補得票状況
候補者名 多摩村での得票数 多摩村での得票率(%) 南多摩郡での得票数 得票総数
八並武治(民) 93 10.5 2,129 14,664
中村高一(社) 189 21.3 2,991 14,133
津雲国利(政) 102 11.5 2,037 12,861
坂本一角(政) 322 36.3 5,498 12,571
小川孝喜(政) 107 12.0 1,624 11,544
山口久吉(昭) 67 7.5 1,544 4,168
『東京日日新聞(府下版)』昭和12年5月2日付より作成。
注)1(民)は立憲民政党、(社)は社会大衆党、(政)は立憲政友会、(昭)は昭和会所属を示す。

表1―10―2 昭和17年総選挙の各候補得票状況
候補者名 多摩村での得票数 多摩村での得票率(%) 南多摩郡での得票数 得票総数
津雲国利(翼)* 507 53.3 5,960 31,655
八並武治(翼)* 90 9.5 2,229 20,611
坂本一角(無)* 183 19.2 4,882 17,010
中村高一(無) 103 10.8 2,786 16,005
佐藤吉熊(東) 51 5.4 837 7,029
『東京日日新聞(府下版)』昭和17年5月2日付より作成。
注)1(翼)は翼賛議員同盟、(無)は無所属、(東)は東方会所属を示す。
  2 *印は翼賛政治体制協議会の推薦候補である。

 昭和十七年四月十七日現在の「衆議院議員総選挙選挙運動情勢報告」によると、坂本の有力な支持者だった元府議の横田秀隆と元多摩村議の小川二郎が、前回の総選挙で坂本が落選してから津雲支持に移っていると、八王子警察署が警視庁に報告している(横関至・吉見義明編『資料日本現代史4翼賛選挙①』)。こういった支持者の離反が、坂本を不利にしていた。しかし結局は、推薦を受けた三人の候補者だけが当選を果たしている。
 また表1―10―3のように、多摩村の棄権者数も前回に比べて半分に減り、多摩を含む東京第七区全体の棄権率よりもさらに低く、政府の宣伝はある程度成功していた。昭和十七年五月に実施された多摩村の村会議員選挙では、自由立候補者が一人いたものの(東京都公文書館蔵)、翼賛壮年団員の議員が七人誕生している(『東京日日新聞』昭和十七年六月四日付)。
表1―10―3 昭和12・17年総選挙の投票者数と棄権者数
有権者数 投票者数 棄権者数 棄権率(%)
昭和12年 昭和17年 昭和12年 昭和17年 昭和12年 昭和17年 昭和12年 昭和17年
多摩村 1,050 1,034 888 951 162 83 15.4 8.0
南多摩郡 19,826 18,257 15,906 16,809 3,920 1,452 19.8 8.0
八王子市 11,434 14,595 9,409 13,625 2,025 970 17.7 6.6
東京第7区合計 88,001 102,353 70,369 93,119 17,632 9,234 20.0 9.0
『東京日日新聞(府下版)』昭和12年5月1日付、昭和17年5月1日付より作成。

 翼賛選挙が終わると、大政翼賛会の機能の強化がはかられた。昭和十七年五月、大日本婦人会や大日本青少年団など六団体が大政翼賛会の傘下に統合され、さらに同年八月には、部落会、町内会、隣組が翼賛会の末端組織に組みこまれる。昭和十八年(一九四三)四月に作られた「落合部落会事務担当表」(多摩市行政資料)によると、落合部落会では配給と供出を担当する経済部をはじめ総務、経理、貯蓄、厚生文化、警防、農林、調査、保健、蚕糸、婦人の合計一一の部が置かれている。増えつづける事務負担を分担することで、末端でも組織の整備がさらに進んでいた。
 昭和十七年十二月には、大政翼賛会が「君が代」につぐ「国民の歌」に「海ゆかば」を指定して、常会などの会合で歌うよう指導し、多摩聖蹟記念館にもその通知が届いている(「多摩聖蹟記念館日誌」)。このほか、村には婦人常会と防空関係者常会も組織され、活動が行われていた。例えば、昭和十八年七月には、多摩村の防空関係者一〇数人が杉田浦次警防団長の引率により、東京の三越で開催されていた防空展覧会と防空訓練を見学している(「多摩聖蹟記念館日誌」。
 昭和十八年八月には、多摩村でも他村と同様に参与条例が制定され、村行政の翼賛化がはかられた。新設された参与会の審議では、多数決をとらず、議長が裁定を下して決定する「衆議統裁」方式がとり入れられ、議長である村長の権限はこの条例で強化されている(資四―142)。こうして戦争のための組織化は進み、村民は大政翼賛会を頂点とする諸団体に組みこまれ、動員されていった。