一か月後に実施された総選挙では、議会を御用議員でかためるため、初めて候補者の推薦制がとり入れられた。政府は大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、在郷軍人会などを動員し、常会を通じてこの推薦制の意義を宣伝する一方で、非推薦候補に対する激しい選挙干渉も行った。昭和十七年三月二十九日には、大政翼賛会東京府支部主催による「大東亜戦完遂翼賛選挙貫徹移動映画会」が、多摩村で開かれている(『東京日日新聞』昭和十七年三月三日付)。また、昭和十七年度の多摩村決算を見ると、「翼賛選挙費」として三四二円があてられている。
多摩村での各候補者の得票状況は、表1―10―2の通りであった。表1―10―1の無産政党が躍進した前回の結果と比べてみると、まず非推薦の中村高一の得票が半減している。それだけでなく南多摩を地盤とする坂本一角までも、推薦候補でありながら得票率を半分に減らした。それに対して、青梅を中心に西多摩に勢力をもつ津雲国利が、多摩村で五倍も得票数を伸ばしている。
候補者名 | 多摩村での得票数 | 多摩村での得票率(%) | 南多摩郡での得票数 | 得票総数 |
八並武治(民) | 93 | 10.5 | 2,129 | 14,664 |
中村高一(社) | 189 | 21.3 | 2,991 | 14,133 |
津雲国利(政) | 102 | 11.5 | 2,037 | 12,861 |
坂本一角(政) | 322 | 36.3 | 5,498 | 12,571 |
小川孝喜(政) | 107 | 12.0 | 1,624 | 11,544 |
山口久吉(昭) | 67 | 7.5 | 1,544 | 4,168 |
候補者名 | 多摩村での得票数 | 多摩村での得票率(%) | 南多摩郡での得票数 | 得票総数 |
津雲国利(翼)* | 507 | 53.3 | 5,960 | 31,655 |
八並武治(翼)* | 90 | 9.5 | 2,229 | 20,611 |
坂本一角(無)* | 183 | 19.2 | 4,882 | 17,010 |
中村高一(無) | 103 | 10.8 | 2,786 | 16,005 |
佐藤吉熊(東) | 51 | 5.4 | 837 | 7,029 |
昭和十七年四月十七日現在の「衆議院議員総選挙選挙運動情勢報告」によると、坂本の有力な支持者だった元府議の横田秀隆と元多摩村議の小川二郎が、前回の総選挙で坂本が落選してから津雲支持に移っていると、八王子警察署が警視庁に報告している(横関至・吉見義明編『資料日本現代史4翼賛選挙①』)。こういった支持者の離反が、坂本を不利にしていた。しかし結局は、推薦を受けた三人の候補者だけが当選を果たしている。
また表1―10―3のように、多摩村の棄権者数も前回に比べて半分に減り、多摩を含む東京第七区全体の棄権率よりもさらに低く、政府の宣伝はある程度成功していた。昭和十七年五月に実施された多摩村の村会議員選挙では、自由立候補者が一人いたものの(東京都公文書館蔵)、翼賛壮年団員の議員が七人誕生している(『東京日日新聞』昭和十七年六月四日付)。
有権者数 | 投票者数 | 棄権者数 | 棄権率(%) | |||||
昭和12年 | 昭和17年 | 昭和12年 | 昭和17年 | 昭和12年 | 昭和17年 | 昭和12年 | 昭和17年 | |
多摩村 | 1,050 | 1,034 | 888 | 951 | 162 | 83 | 15.4 | 8.0 |
南多摩郡 | 19,826 | 18,257 | 15,906 | 16,809 | 3,920 | 1,452 | 19.8 | 8.0 |
八王子市 | 11,434 | 14,595 | 9,409 | 13,625 | 2,025 | 970 | 17.7 | 6.6 |
東京第7区合計 | 88,001 | 102,353 | 70,369 | 93,119 | 17,632 | 9,234 | 20.0 | 9.0 |
翼賛選挙が終わると、大政翼賛会の機能の強化がはかられた。昭和十七年五月、大日本婦人会や大日本青少年団など六団体が大政翼賛会の傘下に統合され、さらに同年八月には、部落会、町内会、隣組が翼賛会の末端組織に組みこまれる。昭和十八年(一九四三)四月に作られた「落合部落会事務担当表」(多摩市行政資料)によると、落合部落会では配給と供出を担当する経済部をはじめ総務、経理、貯蓄、厚生文化、警防、農林、調査、保健、蚕糸、婦人の合計一一の部が置かれている。増えつづける事務負担を分担することで、末端でも組織の整備がさらに進んでいた。
昭和十七年十二月には、大政翼賛会が「君が代」につぐ「国民の歌」に「海ゆかば」を指定して、常会などの会合で歌うよう指導し、多摩聖蹟記念館にもその通知が届いている(「多摩聖蹟記念館日誌」)。このほか、村には婦人常会と防空関係者常会も組織され、活動が行われていた。例えば、昭和十八年七月には、多摩村の防空関係者一〇数人が杉田浦次警防団長の引率により、東京の三越で開催されていた防空展覧会と防空訓練を見学している(「多摩聖蹟記念館日誌」。
昭和十八年八月には、多摩村でも他村と同様に参与条例が制定され、村行政の翼賛化がはかられた。新設された参与会の審議では、多数決をとらず、議長が裁定を下して決定する「衆議統裁」方式がとり入れられ、議長である村長の権限はこの条例で強化されている(資四―142)。こうして戦争のための組織化は進み、村民は大政翼賛会を頂点とする諸団体に組みこまれ、動員されていった。