戦争が拡大するにつれて、兵力と労働力を確保するために、国民すべてが動員されていく。日中戦争がはじまってのち、在営期間を過ぎた現役兵の無期限延長、補充兵役の期間延長が定められ、昭和十六年(一九四一)には、後備兵役が予備役に統合された。さらに昭和十九年には、朝鮮人にも徴兵制が実施されるとともに徴兵年齢が一九歳に一年引き下げられ、兵役服務年限も四五歳へと五年延長された。
このように徴兵基準を下げて、予備兵役と補充兵を大量に召集することで兵力の動員が行われる一方で、昭和十四年には、国家総動員法に基づき国民徴用令が公布された。これにより、登録された労働者は軍需工場に動員され、またたび重なる改正によって対象となる労働者の範囲は拡大し、強制的に軍需産業の労働力が確保されていった。
戦争遂行のための主要食糧の増産が求められる農村に、兵力と農耕馬の動員、軍需工場への労働力流出、軍需優先による化学肥料の不足が及ぼした影響は大きかった。政府はさらに昭和十六年、臨時農地等管理令を公布して作付の規制に乗り出す。続いて出された農地作付統制規制と作付統制助成規則により、作付の統制は強化され、米、麦、甘藷、馬鈴薯を主とする生産に重点が置かれていった(『農林行政史』第一巻)。そのため、昭和十六年ごろから桑園の整理が行われ、多摩村も減反割当を受けている(『東京日日新聞』昭和十六年二月十九日付)。
このように、年をおって農業をめぐる条件は悪化していたが、これに加えて供出の割当も厳しさを増した。南多摩郡農会が作成した「昭和十八年度主要食糧農産物増産計画」(多摩市行政資料)によると、多摩村の生産目標数量は水稲四四〇〇石、陸稲四六八石、甘藷一七万六七七八貫、馬鈴薯二万五五五〇貫と設定され、それぞれ前年に比べ一五〇石、一九石、六万五一四八貫、二八四七貫の増産が割り当てられている。表1―10―4に示した昭和十八年度の麦供出状況を見ても、多摩村は大麦と小麦の割当数を達成しているものの、裸麦は達成できていない。それにもかかわらず、昭和十九年度の多摩村への麦供出割当は前年の数量を上回り、表1―10―5のように各地域の農事実行組合に対して割り当てていた。また、南多摩郡農会は各町村に対して、なす、トマト、えんどうといった野菜の作付面積を指示し、拡大するよう指導している(多摩市行政資料)。
表1―10―4 八王子市・南多摩郡各町村の麦供出状況(昭和十八年) |
市町村名 |
大麦 |
小麦 |
割当数 |
供出数 |
供出率 |
割当数 |
供出数 |
供出率 |
横山村 |
一、二三六 |
一、二七二 |
一〇三、五 |
九三七 |
九二七 |
九八、九 |
浅川町 |
三一四 |
三一八 |
一〇一、三 |
三〇五 |
三四三 |
一一二、四 |
元八王子村 |
一、一〇八 |
九九〇 |
八九、三 |
八〇五 |
八九四 |
一一一、一 |
恩方村 |
六二三 |
五〇九 |
八一、四 |
三四八 |
四七四 |
一三六、二 |
川口村 |
一、九二九 |
一、〇八五 |
五六、二 |
八〇七 |
九七九 |
一二一、三 |
加住村 |
一、五八六 |
一、二五八 |
九七、九 |
六七〇 |
六八〇 |
一〇一、五 |
日野町 |
五四八 |
八三二 |
一五一、八 |
一、九〇三 |
一、五六〇 |
八二、〇 |
七生村 |
一一四 |
三〇〇 |
二六三、一 |
一、二六三 |
一、〇五〇 |
八三、一 |
由木村 |
二二〇 |
六八九 |
三一三、二 |
二、〇二三 |
一、四九二 |
七三、八 |
多摩村 |
一五四 |
三五〇 |
二三七、二 |
一、八八〇 |
一、八八九 |
一〇〇、五 |
稲城村 |
四一〇 |
六四八 |
一五八、〇 |
一、四六〇 |
一、一三八 |
七七、九 |
鶴川村 |
一一四 |
一九六 |
一七一、九 |
一、九四一 |
一、九六〇 |
一〇一、〇 |
南村 |
八一 |
一五三 |
一八八、九 |
二、五二九 |
二、七四一 |
一〇八、四 |
町田町 |
五一 |
八五 |
一六六、七 |
一、八五八 |
一、九六四 |
一〇五、七 |
忠生村 |
一六五 |
三九八 |
二四一、二 |
二、五〇八 |
二、三五一 |
九三、七 |
堺村 |
一九四 |
四六五 |
二三五、一 |
一、四八九 |
一、四二四 |
九五六 |
由井村 |
一、四五八 |
一、五一四 |
一〇三、八 |
一、二八四 |
一、三二六 |
一〇三、二 |
計 |
九、三〇五 |
一一、〇五五 |
一一八、八 |
二四、〇一〇 |
二三、一九二 |
九六、六 |
八王子市 |
一、九〇四 |
一、九三九 |
一〇一、八 |
一、六一八 |
一、六七二 |
一〇三、三 |
合計 |
一一、二〇九 |
一二、九九四 |
一一五、九 |
二五、六二八 |
二四、八六四 |
九七、〇 |
市町村名 |
裸麦 |
割当総数ニ対スル供出率 |
成績順位 |
割当数 |
供出数 |
供出率 |
横山村 |
二 |
五 |
二五〇、〇 |
一〇一、四 |
一三 |
浅川町 |
三 |
三 |
一〇〇、〇 |
一〇七、五 |
三 |
元八王子村 |
九 |
二五 |
二七七、八 |
九九、二 |
一八 |
恩方村 |
―――― |
―――― |
―――― |
一〇一、五 |
一二 |
川口村 |
八 |
二一 |
二六二、五 |
一〇二、三 |
一〇 |
加住村 |
二五 |
五五 |
二二〇、〇 |
一〇〇、九 |
一五 |
日野町 |
一四九 |
二九六 |
一九八、六 |
一〇三、七 |
七 |
七生村 |
六六 |
一〇七 |
一六二、一 |
一〇一、一 |
一四 |
由木村 |
一一七 |
一八八 |
一六〇、七 |
一〇〇、五 |
一六 |
多摩村 |
一九八 |
一三七 |
六九、二 |
一〇二、二 |
一一 |
稲城村 |
六四 |
一五四 |
二四〇、六 |
一〇〇、三 |
一七 |
鶴川村 |
七九 |
四四 |
五五、六 |
一〇三、四 |
八 |
南村 |
一七七 |
一五三 |
八六、四 |
一一〇、二 |
二 |
町田町 |
四二 |
二二 |
五二、四 |
一〇六、八 |
四 |
忠生村 |
七七 |
一三六 |
一七六、六 |
一〇五、四 |
五 |
堺村 |
九〇 |
九七 |
一〇七、八 |
一一二、六 |
一 |
由井村 |
七 |
一六 |
二二八、六 |
一〇四、四 |
六 |
計 |
一、一一三 |
一、四五九 |
一三一、一 |
一〇四、〇 |
|
八王子市 |
六七 |
九六 |
一四三、二 |
一〇三、二 |
九 |
合計 |
一、一八〇 |
一、五五五 |
一三一、八 |
一〇四、〇 |
|
東京都食糧検査所八王子支所「八月末日現在管理麦供出状況」(多摩市行政資料)より作成。 |
表1―10―5 昭和十九年度の多摩村麦供出割当(単位・石)
組合名 |
大麦 |
裸麦 |
小麦 |
ビール麦 |
計 |
関戸 |
一四 |
九一 |
二七四 |
〇 |
三七九 |
連光寺一 |
一四 |
八 |
一四八 |
一二 |
一八二 |
二 |
一三 |
〇 |
一六二 |
〇 |
一七五 |
三 |
二七 |
〇 |
二三四 |
〇 |
二六一 |
四 |
二三 |
一 |
一五六 |
〇 |
一八〇 |
貝取 |
一七 |
八 |
一三七 |
〇 |
一六二 |
乞田一 |
一三 |
〇 |
一〇四 |
〇 |
一一七 |
二 |
一三 |
二 |
六二 |
〇 |
七七 |
三 |
一七 |
一〇 |
一九五 |
〇 |
二二二 |
落合一 |
五 |
六 |
八一 |
三 |
九五 |
二 |
三 |
二二 |
一三五 |
〇 |
一六〇 |
三 |
一〇 |
八 |
九 |
〇 |
一一四 |
四 |
一二 |
二二 |
一〇一 |
八 |
一四三 |
五 |
八 |
一四 |
一五三 |
〇 |
一七五 |
和田一 |
一二 |
一七 |
一四二 |
二 |
一七三 |
二 |
一九 |
一八 |
一三六 |
〇 |
一七三 |
東寺方 |
一七 |
四五 |
二五四 |
〇 |
三一六 |
一ノ宮 |
三七 |
二一 |
一五七 |
〇 |
二一五 |
計 |
二七四 |
二九三 |
二、七二七 |
二五 |
三、三一九 |
「多摩村産業組合関係文書綴」(多摩市行政資料)より作成。 |
昭和十八年(一九四三)三月には、農業団体法が公布され、農会、産業組合、養蚕組合などを統合して、農業会が発足した。多摩村では翌年二月に設立総会が開かれ、多摩村農業会が組織されている(多摩市行政資料)。この農業団体の再編により、道府県農業会―市町村農業会―農事実行組合―農家という一元的な農業統制機構で、農作物をすい上げるきびしい供出体制ができあがった。こうして農家経営の困難な状況のもと、村をあげて供出用の食糧の増産に努めていたが、それでも農家のなかには、数量の不足から自家用の食糧まで供出されるものもいた。供出の対象は、農作物だけではない。昭和十六年の金属回収令によって金属製品にも及び、村内の寺院の梵鐘も昭和十七年五月に供出を命じられ(峰岸松三編『落合の出来事覚書』)、昭和十九年十二月には、多摩聖蹟記念館にあった田中光顕の銅像も撤去された(「多摩聖蹟記念館日誌」)。関戸橋の鉄製の街路灯も、取りはずされて姿を消す(『写真で綴る多摩一〇〇年』)。
一方、供出とともに村民の生活を圧迫していたのが、貯蓄目標と国債消化の割当であった。昭和十六年九月には、小金豊成村長を組合長とする多摩村役場職員国民貯蓄組合が組織されている。これにより各職員は、定められた貯蓄増加目標額に応じて、給料から毎月割当額を差し引かれた。昭和十六年度の貯蓄増加目標額は、一五人の職員合わせて五四〇円となっている(多摩市行政資料)。同じような貯蓄目標は、国民学校の子どもたちにも立てられた。多摩国民学校の「昭和十六年度児童貯蓄計画」(多摩市行政資料)では、児童一人ひとりに目標額が決められ、額に応じて毎月郵便貯金に振り込むという方法が取られている。農業だけでは現金収入の少ない村にあって、保護者により一層の負担を強いるものであった。そのうえ、村役場から部落会長を通して隣組に配られる生活物資の配給量も、戦争の進展とともに次第に不足しはじめる。農作業に必要な軍手、タオル、地下足袋がたとえ入荷したとしても質が悪く、切符があっても手に入らないことが多かった。