昭和十四年(一九三九)十二月、新聞は女性の職場進出の傾向が南多摩郡で進んでいることを伝えた(『東京日日新聞』昭和十四年十二月二十八日付)。多摩村役場でも昭和十五年一月の名簿には、雇として佐伯ナミ子の名前があり、これまで男性の職場であった村役場で事務補助の仕事に就いている(多摩市行政資料)。昭和十六年からは毎年多くの女性が書記補、雇、保健婦、技手補として雇われ、十六年には三人、十七年に一人、十八年四人、十九年五人、二十年に四人が新たに採用された。昭和十九年六月ごろの村役場の名簿を見ると、三三人の職員のうち女性は一三人にも達している(多摩市行政資料)。また昭和十六年の国民徴用令の第二次改正によって、女性の徴用が可能となり、昭和十八年からは、一四歳から二五歳の未婚の女子が「自主的」に軍需工場への動員に参加する女子勤労挺身隊が編成された。翌年には、女子挺身勤労令により未婚女性は原則として一年間の動員が義務づけられる。
未婚女性の動員が進む一方で、村の多くの女性たちは農作業に追われていた。家事、育児をしながら、一家の働き手を失った家庭を支え、無我夢中で働きつづける。必要にせまられて、男でもつらいといわれる馬耕の腕も磨かなければならなかった。南多摩郡農業会では、昭和十九年六月、多摩村・七生村・日野町の女性を集めて馬耕班を組織し、作業能率を上げるため、馬の扱い方を教える計画を立てている(『毎日新聞』昭和十九年六月十五日付)。農耕の動力となる馬自体、徴発により数が減り、労働力不足と生活物資の欠乏のなかでの過重労働であった。
図1―10―15 女子青年団員への馬耕指導
さらに戦時下では、戦力の増強とともに人間を「人的資源」とみなして、その保護育成がはかられた。昭和十六年には、太平洋戦争のもとで人口政策の基本となる人口政策確立要綱が閣議決定され、結婚の紹介、産児制限の禁止、妊産婦と乳幼児の保護、多子家族の優遇、結核の早期発見などの諸方策が掲げられる。厚生省では、昭和十五年から毎年、同じ父母で、しかも死亡者のいない、一〇人以上の健康な子どもを育てている家庭に優良多子家庭の表彰を行った。多摩村からも昭和十五年に一家族(『東京日日新聞』昭和十五年十月十九日付)、昭和十九年には二家族が選ばれて表彰されている(『毎日新聞』昭和十九年十一月二日付)。大日本婦人会でも、人口増加策として早婚多産の奨励に乗り出していた。
しかし、「生めよ殖やせよ」のかけ声の裏では、栄養不足、農繁期の労働過重から早流産、乳児の死亡という悲劇も起きていた。食糧事情が悪化するなか、農村の女性たちは、一方で男性に代わる労働を強いられ、他方で妊娠、出産、保育の「務め」が求められる。戦争によるしわ寄せは、こうして女性をつらい立場に追い込んでいった。