労働力不足の対策

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労働力の不足という村の抱える深刻な問題を解決するため、これまで勤労奉仕班の設置、青年団や婦人会などの勤労奉仕が実施されてきた。それに対して、大政翼賛会は多摩村で必勝大合唱会(『東京日日新聞』昭和十七年二月二十七日付)、増産慰安激励映画会(『毎日新聞』昭和十八年十月七日付)を開き、翼賛壮年団と大日本婦人会も決戦浪曲会を開催して、慰問激励を行う(『毎日新聞』昭和十九年一月二十日付)。しかし、「米英撃滅」を掲げ、戦意高揚をはかる一時的な催しで労働力不足は片づく問題ではなく、国民学校の生徒も勤労奉仕に動員し、村外の中学生や自営業者からなる勤労報国隊も受け入れて、子どもと非農業者の協力を得なければならなかった。

図1―10―16 奉仕隊員と村民との交流

 このほか、多摩村では不足する労働力を補うために、新しいさまざまな試みがなされている。特に、農業生産の共同化が進められ、共同作業のほか農繁期託児所の設置と共同炊事が行われた。昭和八年(一九三三)に、三多摩でいち早く開設された多摩村の農繁期託児所は、昭和十五年には朝日新聞社の社会奉仕事業団から表彰され「慈愛旗」を贈られている(『多摩町誌』)。最も忙しい農繁期に、女子青年団員らが子どもたちを預かり、保母役をつとめることで、母親は子どもの面倒から離れ、農作業に専念することができた。評判のよかった農繁期託児所は、毎年村内に三か所ほど設置され、多摩村の決算を見るかぎり昭和十六年まで続けられたようである。
 一方、それまで南多摩郡農会で研究されていた共同炊事は、横山村(現・八王子市)で初めて取り組まれ、昭和十五年に共同炊事組合が結成された(『東京日日新聞』昭和十五年三月五日付)。多摩村でも早くからこの事業に関心を寄せ、横山村につづき昭和十六年から共同炊事を実施している。昭和十六年には、東京から来た栄養学校研究生の女性たちが手伝い、翌年春には、予定していた村外からの応援がなかったため、田植えの早く終わった地元の農民が炊事を行っている。しかし、いずれもうまくいかなかった(『読売報知』昭和十七年十一月一、三、五日付)。
 昭和十七年(一九四二)十月、二回の失敗を経験していた多摩村で、三度目の共同炊事が試みられる(『ふるさと多摩』七号)。九人の浅草区浅草第一女子青年団員が、大日本青少年団や帝国農会などが企画する女子青年農村勤労奉仕隊として、落合で共同炊事の勤労奉仕を行った。事前に三日間の予備訓練を受けた奉仕隊員は、十月二十日から三十一日までの前班四人、十一月一日から十日までの後班五人に分かれて多摩村に入る。この奉仕隊員の指導には小林福太郎があたり、朝昼晩あわせて一日平均二二五食の食事を四、五人の女子で用意した。勤労奉仕に参加した佐藤トミノは、のちに東京府青少年団の『勤労奉仕・軍役奉仕概況報告書』(多摩市行政資料)のなかで、次のような感想文を書いている。
 私達の参りました部落は大変水の不便な所で、水の出る場所に行くのには調理場より五百歩位離れて居ります。天気の良い時でも、両手に「バケツ」をさげて汲みに参りますのは骨の折れる仕事でした。
 村の小父さん方が見兼ねてリヤカーで運んでやらうと仰有つて下さいましたが私達は、折角お手伝に来て少しでもお役に立つ様にと思つて居りますのに、小父さん方のお手をわづらはしては何にもなりませんからとお断り致しました。すると、水の出て居る所から竹筒で地下を通して、クラブの調理場の「カメ」に何時もたまる様にして下さいました。……

 佐藤の文章には、足手まといになったのではという反省の言葉がならんでいる。しかし、経費をかなり抑えているにもかかわらず、味、分量ともに好評で、何よりも村びとになりきろうと努力する姿が村民の感心を引いていた。村の投書箱には、感謝の言葉ばかりで、悪く言う者は一人もいなかったという。昭和十七年十月二十九日、奉仕隊員を招いて落合青年倶楽部で開かれた共炊座談会では、多摩村側の出席者から彼女たちにお礼の言葉が伝えられた(『読売報知』昭和十七年十一月一、三、五日付)。このとき、杉田浦次助役は、今回の共同炊事について次のような感想を述べている。
杉田 労力の節減がこの仕事の眼目だが、それだけでは物質的金銭的に流れて面白くない。共炊は金が掛るといった不満の声は、そんな所から起き勝ちだ。今度痛感したのですが、栄養補給という眼に見えぬ効果、これが大きい。農家では忙しくなると昼食はお茶漬が通り相場、激労期にはこれでは堪らない。副産物として部落民の気持ちが一つになった。

 ここで杉田は、農作業にはげむ村民の栄養にも気をつかっていることがうかがえる。しかし、農繁期託児所にしても共同炊事にしても、農村女性の過重労働を多少減らすことはできても、根本的な解決にはなっていなかった。

図1―10―17 奉仕隊員を招いた共炊座談会