五月七日晴 林医師、今回沼野氏ノ後ヲ継キ、本村東寺方ニ医術開業シ、之ガ披露ノ宴ヲ小学校本校ニ開キ、本村名誉職及役場吏員一同招待セラレ、午後七時出席。酒餐ノ嚮ヲ受ケ、午後十時散会ス。
林医師の開業披露宴は小学校で開かれ、村の名誉職から役場職員まで出席している。ちなみに新聞記事によると、昭和十一年の時点で、南多摩郡では半数の九町村がまだ無医村であった(『読売報知』昭和十一年七月二十三日付)。当時医者は貴重な存在であり、この開業披露宴の様子を見ても、村医に寄せる期待と、それにともなう医師の地位の高さがうかがえる。
昭和二年から十二年までの多摩村の事務報告書を見ると、村医の指導による清潔法、種痘、腸チフス予防注射が毎年実施されている。ときにはジフテリア予防注射、寄生虫検査、歯科医の出張診療も行われた。昭和八年以降、衛生講習講話会と衛生映画会が開かれ、昭和十四年度には乳幼児検査も実施されていることが、村の決算から読みとれる。なかでも、農村疾病として寄生虫とともに多かったトラホームの治療には、杉田武義が力をつくし、村をあげてトラホーム撲滅運動が繰り広げられた(『多摩町誌』)。またこういった村の事業とは別に、杉田は差別を受けていた朝鮮人や貧しい人たちの往診を無料で行う医療奉仕活動も実践したといわれる(杉田誠氏からの聞き取り)。開院当初は地域住民から恐れられていた精神科の桜ヶ丘保養院、結核専門の厚生荘診療所でも、医師たちが村の人たちに対して診療を行っていたという。
図1―10―18 桜ケ丘保養院
このように多摩村では、昭和十五年(一九四〇)までに各種の保健事業がすでになされていた。しかしそれでも伝染病患者はあとをたたず、昭和十六年の事務報告書には、赤痢八人、ジフテリア二三人、疫痢一二人、猩紅熱(しょうこうねつ)一人、そのうち死者合計七人と記録されている。
政府は昭和十三年四月、これまで患者の医療費にのみ依存して農家経済の重圧となっていた医療制度を改め、農家における医療機関の確保を目的に、国民健康保険法を公布した。これにしたがい昭和十六年一月、村長を理事長とする多摩村国民健康保険組合が、三多摩で二番目に設立される(『多摩町誌』・資四―140)。組合の昭和十六年度予算によると、組合員は七三五人、被保険者四三五〇人で、組合費は年一一円あまりとなっていた(多摩市行政資料)。
昭和十六年六月には、多摩村が東京府より乳幼児体力向上指導指定村の一つに指定され、同年九月、多摩村保健協会が設立された(『東京日日新聞』昭和十六年六月十七日、同年九月十三日付)。これを受けて、村には三〇戸平均に二人の補導員が置かれ、妊婦と乳幼児の世話を巡回して行う。補導員はまた、受持区域内で妊娠した女性を知ると保健協会に通知し、村が助産婦を送るということになっており、「準産婆」といった存在でもあった。
栄養食講習会も昭和十八年一月に多摩国民学校で開かれ(「多摩聖蹟記念館日誌」)、同年二月には母性補導員会と保健協会がヤギを飼い、栄養のある乳を乳幼児と妊婦に送ることを決めている。それまでにも多摩村では、母乳と牛乳の不足を補うということで、個人の飼育するヤギの乳を乳幼児に対し優先的に配給していた(『毎日新聞』昭和十八年二月七日付)。さらに村では、昭和十九年四月から保健婦を一人採用する。戦局の悪化で医療機関の荒廃が進み、注目されてきた農村医療の問題が各地で棚上げにされていくなかで、衛生状態を維持しようと、こうして知恵をしぼった工夫が続けられている。
戦時中、多摩村が積極的に取り組んだ保健事業は、国策に協力するものであるとともに、他方では、地域の抱える問題に対して村民の要求にこたえる戦前から続けてきた事業の延長でもあった。もちろん、それを可能にした背景には、高度な技術を身につけて農村医療の発展につくす医師と、そこから積極的に学ぼうという姿勢をもっていた見識ある地域のリーダーの協力があったといえよう。また、多摩村では保健事業だけでなく、農繁期託児所の設置、共同炊事の実践といった新しい試みも、前でみたように東京府下でいち早く率先して行われていた。「村民の利益」につながることであれば、新しいことにも関心を寄せ、知恵をしぼり、積極的に受け入れていく。その柔軟性と企画力、ここにこの村の特徴の一端をみてとれるのではなかろうか。