軍需工場が三多摩に進出するこうした動きのなかで、稲城村(現・稲城市)に陸軍の火薬製造所を建設することが決まったのは、昭和十二年五月のことであった。決定を受けて同年十月から、工場用地の第一次土地買収がはじまり(山田重雄『多摩火工廠懐古』)、昭和十三年十一月に陸軍造兵廠火工廠板橋製造所多摩分工揚が新設される。地域の人たちは、この長い正式名称を略して「多摩火工廠」と呼んでいた。昭和十四年十月には、板橋製造所から独立し、火工廠多摩火薬製造所に昇格している。また並行して昭和十三年から、新たに第二・第三工場をつくるための第二次土地買収が行われていた(山田重雄『多摩火工廠懐古』)。第一・第二工場を抱える稲城村からはじめられた用地買収は、第三工場の用地を求めてさらに西に進み、多摩村連光寺に及ぶ。
陸軍に買い上げられた連光寺地区の土地台帳を見るかぎり、登記上の移転時期は昭和十四年から十六年の間に集中していて、最も遅いものは昭和十七年三月であった(資四―114)。このことから、多摩村での第二次土地買収は、昭和十七年には完了したと考えられる。長期化する日中戦争を背景に、工場の増設は国家にかかわる重大なこととして、この用地買収は強圧的に行われた。工場予定地の土地所有者は、印鑑持参で多摩火工廠の本部事務所に集められ、責任者の軍人が一方的に拡張理由を説明し、「すべての土地は天皇陛下のものだから、返さなければならない」と説得して、その場で契約を結ばせた。買収価格は場所によって異なるが、だいたい一坪あたり田が二円、畑が一円五〇銭、山林が七〇銭だったといわれている(連光寺火工廠関係者座談会)。
当時、契約交渉に参加した長沢幸作によると、多摩村では多摩火工廠西門から白山神社にぬける道沿いの一六軒が、集団移転の対象になったという。それぞれの移転先は図1―10―19のように、A地点に三軒、長沢を含むB地点に二軒、連光寺共有地のC地点に一〇軒で、最も西門に近かった家は稲城村に移転した。昭和十三年には集団移転の噂を耳にしていた長沢は昭和十四年の暮に正式の話があり、一年間の猶予を与えられて昭和十六年一月に移転したという(長沢幸作氏・伏見君子氏からの聞きとり)。異論をとなえることのできない重苦しい空気のなか、陸軍の命令により強制的に土地や家屋を手放さなければならなかった。こうして第三工場は、連光寺の人たちの犠牲の上に建設されていく。
図1―10―19 集団移転対象者の移転先
長沢幸作・伏見君子両氏の聞きとり調査をもとに作図。