多摩村から通勤する工員

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用地買収が終わると、第二・第三工場の建設工事が進められる。この建設工事で、重労働の作業にあたったのは松村組の多くの朝鮮人労働者であった。かれらが寝起きする飯場の一部は連光寺に建てられ、当時を知る連光寺の人たちの証言によると、図1―10―20のように三か所あったといわれる。三つの飯場いずれも、多摩火工廠の敷地外の隣接する土地にあった。そのなかで最も早くできたのは、西門に近いA地点の建物である。ここは工事の主体となる現場事務所をかねていたため、しっかりとしたつくりであったのに対して、B地点の飯場は約一五〇人も収容できる大きな飯場があったという(萩原政実氏・萩原芳郎氏からの聞きとり)。朝鮮人労働者はこれらの飯場で寝起きしながら、山を切り崩す作業を受けもっていた。彼らはシャベル、一輪車といった原始的な道具を使ってすべて人力で山のすそをけずり、土の重みで崩れ落ちる前兆を感じたら瞬間的に避難する。工場の早期完成を重視し、人命を軽視するこうした危険な方法が続けられたことにより、三人の犠牲者が出たといわれている(山田重雄『多摩火工廠懐古』)。

図1―10―20 朝鮮人労働者の飯場の所在地
萩原政実・萩原芳郎・長沢幸作・伏見君子各氏の聞きとり調査をもとに作図。

 また、この建設工事には府中刑務所の囚人が看守の引率で応援に来ている(山田重雄『多摩火工廠懐古』)。このほか工場の早期完成のために、連光寺の多くの男性も農閑期にこの建設工事を手伝い、測量などを行っている。多くの人たちを動員することで工事も進展し、連光寺には従業員のための官舎も建てられ、第二工場は昭和十五年(一九四〇)に、第三工場は昭和十九年にそれぞれ操業を開始した(『稲城市史 下巻』)。
 生産増強のために施設を広げる一方で、同時に従業員の確保もはかられる。多摩火工廠には、板橋製造所から移ってきた「転属工員」、東北各県での出張募集に応じて上京した「東北工員」のほかに「多摩工員」と呼ばれる人たちもいた(山田重雄『多摩火工廠懐古』)。この多摩工員は地元から通う従業員のことを指し、多摩村だけでも男女合せて一〇〇人近くいたといわれる(多摩火工廠勤務者座談会)。それではなぜ、これだけ多くの村民が通っていたのであろうか。
 すでに通勤していた村民の紹介で守衛として働くようになった人たちの証言によると、当時多摩火工廠に勤めるということには三つのメリットがあったという。一つには、仕事をしながら農業もできるということ、第二に、軍事施設に勤めていることで徴集されにくいということ、そして第三に、もし召集されても給料が出るという利点があった(第二回兵役座談会)。多摩火工廠に通う多摩村の女性も少なくなかったことを考え合わせると、その背景に、なかなか農業だけで家を守っていけない当時の村民の生活が浮かび上がってくる。これという特産物もなく、農業だけでは現金収入の少ない村にあって、多摩火工廠は身近な勤め口であり、安定した収入の得られる場であった。用地買収、強制移転と連光寺の人たちの犠牲の上につくられた多摩火工廠は、一方で村民の働く場の一つとして定着する。