労働力の不足と第四工場

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軍需工場の進出にともない、外国人に対する取り締まりはきびしくなっていた。スパイから国家の機密を守るという「防諜」を理由に、三多摩でも昭和十三年(一九三八)六月、立川憲兵隊長と八王子警察署長が、観光客をよそおうスパイの取り締まりを検討している(『読売新聞』昭和十三年六月十日付)。
 多摩火工廠の周辺にもハイキングコースがあり、多摩聖蹟記念館に通じるこのコースはもともと多摩火工廠ができる前につくられていた。しかし、このハイキングコースから、のちに建てられた火工廠の様子をよく見ることができたため、当時守衛として働いていた人たちの証言によると、昭和十五年に二人の外国人がこのコースを歩き、騒ぎになったという(多摩火工廠勤務者座談会)。同年七月、多摩火工廠が付近の町村の有力者を集めて防諜懇談会を開き(資四―115)、翌月にはハイキングコースが廃止され、通行禁止の看板がたてられた(資四―116)。
 こうして戦争のために、何よりも軍需が優先されていく。しかし、多摩火工廠では、工場の規模を順調に広げていたにもかかわらず、生産の増強に必要な工員を十分に確保することができなかった。多摩村からもすでに多くの人たちが従業員として働いていたが、それでも表1―10―6に見るように、昭和十六年九月まで男女工員の人所者数は少ない。せいぜい所要人員の二割で、解雇者を補充する程度しか集まらなかった。一般募集では十分に工員を確保することが難しかったため、多摩火工廠では昭和十六年十月から、徴用令状によって強制的に動員された徴用工を受け入れた。多摩製造所「昭和十七年度 軍需動員実施概況報告綴」(防衛庁防衛研究所図書館蔵)を見ると、同年十月十六日に第一次、十一月二十五日に第二次徴用工員の入廠式が行われ、合計六六五人の徴用工が配置されている。監視つきの宿舎に入れられながら、危険な作業に従事した多摩火工廠の徴用工の生活については、「戦時下における一朝鮮人徴用工の労働と生活」(『専修経済学論集』二八巻一号)という聞きとり調査がある。
表1―10―6 多摩火工廠の人員異動状況
昭和16年
4~6月
昭和16年
7~9月
昭和16年
10~12月
昭和17年
1~3月
男子工員の所要人員 230 780 865 150
女子工員の所要人員 175 810 350 150
男子工員の入所者数 57 181 706 46
女子工員の入所者数 27 109 54 116
工員解雇者数 120 112 130 97
全工員数 1,164 1,298 1,893 1,941
全従業員数
(休職者を除く)
1,306 1,426 2,027 2,083
多摩製造所「昭和十七年度 軍需動員実施概況報告綴」(防衛庁防衛研究所図書館蔵)より作成。

 この徴用による補充が限界となると、学生と女性が多摩火工廠に動員された。山田重雄『多摩火工廠懐古』には、私立八王子中学校と私立立川高等女学校の生徒(資四―119)と、芝浦高等工学校と専修大学の学生が動員され、女性は女子勤労挺身隊として福島、埼玉両県の高等女学校卒業生がそれぞれ入所したと書かれている。女子勤労挺身隊には学校ごとの同窓会挺身隊のほかに、地域別の挺身隊もあった。多摩村でも女子勤労挺身隊が約一五人で編成され、昭和十九年(一九四四)ごろから多摩火工廠で勤務している。また昭和二十年には、都立二中(現・立川高校)の生徒が、当時教鞭をとっていた画家・倉田三郎の引率で、第二工場の作業に動員されたといわれる(多摩火工廠勤務者座談会)。
 戦局は悪化していくなかで、こうして学生、女性といった未熟練のものまで、貴重な労働力として動員されていった。「終戦直後の造兵廠現況綴」(防衛庁防衛研究所図書館蔵)には、多摩火工廠の全従業員数とその内訳が載っており、そこには全従業員二〇八五人(職員七九人一般工九三三人・徴用工二五三人・学徒八二〇人)と記録されている。昭和十六年の受け入れ時にくらべ、徴用工は三分の一に減り、そのかわりに学徒で工員の不足を補っていることがこの数値からもわかる。
 一方、昭和十九年六月には、生産量の増えた火薬を安全に保管するため、新しい工場の建設が行われた。この建設作業には、軍人、朝鮮人労働者、府中刑務所の囚人のほかに学生も動員されたといわれている。丘陵の山腹には横穴が掘られ、昭和二十年五月までに「第四工場」と呼ばれる全部で六〇から六四の地下弾薬庫が、第三工場に隣接する連光寺に完成した(高橋正幸「多摩火薬製造所覚書き」『稲城市史研究』五号)。
 そのため、連光寺の人たちはまたも工場増設のために、多摩火工廠へ出頭しなければならなかった。昭和十八年、逆らうことのできない重苦しい空気のなか、その場で黙って印鑑を押す光景が繰りかえされる(萩原政実氏・萩原芳郎氏からの聞きとり)。ただ今回の契約は、軍が買い上げる用地買収ではなく、所有権の移転をともなわない地役権の設定という契約であった。したがって、今回対象となった人たちは、多摩火工廠がその土地を自由に利用する点で所有権の制限を受けるものの、所有権自体を手放すことにはならなかった(資四―118)。しかし、いずれにしてもまた連光寺の人たちの犠牲の上に、新たな施設がつくられていったことにはちがいない。
 第四工場が急ピッチで建設され、完成すると、そこに火薬を運ぶ作業が待っていた。この危険な作業に動員されたのも、地域の人たちである。馬車と牛車をもっている村民が集められ、できあがったばかりの横穴に火薬を運んでいく。その際、火薬を積んだ車は、一〇〇メートルずつ離れて運ぶようにという指示があったという(終戦前後の生活に関する座談会)。暴発による他への影響しか念頭にない、人命を軽視した作業がここでも続けられていた。