戦車道路の建設計画

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戦時中、多摩火工廠の第三・第四工場をかかえていた多摩村は、一方で相模陸軍造兵廠の戦車道路建設予定地にもなっている。この戦車道路は、相模陸軍造兵廠が生産した戦車を走らせるためにつくったテストコースであった。昭和十八年の暮、現在の町田街道の北側をほぼ平行するように走る約八キロの道が、戦車道路として完成している(『町田市史 下巻』)。
 しかし、戦車道路の建設計画はこれだけにとどまらず、できあがった部分をさらに大きく分けて三か所から北にむけて延ばしていく。それぞれ由木村(現・八王子市)、忠生村、鶴川村(いずれも現・町田市)を通ったコースが、多摩村で合流するという計画がたてられた(資四―120)。多摩村にかぎって見れば、由木村から中沢へ、忠生村から唐木田へ、鶴川村から青木葉へと入ってきた三本の戦車道路が、現在の多摩センター駅付近で合流する予定になっていた。
 用地買収の対象となった唐木田、中沢、落合などの土地台帳を見るかぎり、登記上の移転時期は昭和十八年(一九四三)の三月と四月に集中している(資四―122)。ただ、当時を知る落合の人たちの証言によると、用地買収の噂は昭和十五年に出ていて、翌年には正式に買収されたという(小林藤雄氏・寺沢茂世氏からの聞きとり、峰岸松三編『落合の出来事覚書』)。買い上げられる前から、測量が行われていたという点からみても、多摩村を含む建設計画自体は早くからあったと考えられよう。
 町田市企画部企画政策課編『平和への祈りをこめて―戦争時代の町田』は、陸軍に買い上げられた人の証言を引用して、町田での戦車道路の買収方法を記している。それによると、不安を抱きながら相模陸軍造兵廠に印鑑をもって出頭した買収の対象となった人たちは、そこで「おまえたちの土地に戦車道路をつくるから、ここにハンコを押せ」といわれて、みんな黙って押したという。ちょうど多摩火工廠の土地買収と同じような光景が、ここでも繰り返されていた。戦車道路の予定地にされた多摩村民への用地買収も、同じように強圧的な方法で行われたと考えられる。
 多摩村で買収の対象となった土地のほとんどは、農地と山林であった。しかし、なかには養蚕小屋や作業場が該当し、強制移転させられた家が三、四軒あったという(小林藤雄氏・寺沢茂世氏からの聞きとり)。また、「弘法様」もこのときに移転させられ、そばにあったひばの木も切り倒された(峰岸松三『落合名所図絵』)。正式に契約が結ばれると、戦車道路予定地と民有地との境界には「陸軍用地」と刻まれた標石が打ち込まれ、「戦車道路石柱代金徴集控」(落合自治会文書)によると、下落合・青木葉・山王下・中組・唐木田あわせて少なくとも五四六本の石柱が埋まっていたようである。

図1―10―21 落合青年倶楽部前にあった標石
青年団員たちの前に標石が写っている。

 この標石を基準に昭和十七年(一九四二)秋、戦車道路の工事は相模陸軍造兵廠にもっとも近い、町田街道の北側をほぼ平行して走るコースから進められる。ここでも、重労働の突貫工事に動員されたのは朝鮮人労働者であった。現場近くには、寝起きするためだけの飯場が建てられ、かれらはシャベルとつるはしを手にひたすら土を掘っていく作業に従事する。真冬でも、ときには徹夜で工事は続けられた。雪が降りしきるなか、上半身はだかの労働者の背中からは白い湯気がうっすらとたち、かれらの帰りを待つ朝鮮の女性は、飯場に台所がないため、道端にしゃがんで炊事をしていたという(『平和への祈りをこめて』)。
 このように、朝鮮人労働者による建設作業は急ピッチで行われたが、結局多摩村まで工事は進まず、未完のかたちで敗戦をむかえる。朝鮮人労働者の姿を身近で目にすることもなく、村では標石が埋ったまま耕作が続けられていた。しかし一方で、食糧不足の時代に兵役で一家の働き手を失い、軍の要請で先祖伝来の耕地までも手放し、人命軽視の作業にも加えられるという危険に、多摩村の人たちは日々さらされていたのである。