学校教育の軍事化

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昭和六年(一九三一)四月、多摩尋常高等小学校に天皇と皇后の写真である御真影が下賜された。東京府庁で行われた奉戴式には、小金豊成助役、河原半平校長、護衛のための巡査の三人が、村から出頭している(「備忘録」伊野弘世氏蔵)。この御真影と教育勅語の謄本を納めた奉安殿は、大正十四年ごろに建設され、その後日本が満州事変を契機に十五年戦争の道を進むにつれ、戦時教育のシンボルとなっていった(多摩市行政資料)。
 昭和七年六月、河原校長は転任し、稲葉良仁が小学校の校長に就任する。当時学校では、授業の一方で学芸会、展覧会、運動会といった行事が行われていた。大正十一年(一九二二)以降中止されていた乗り物による遠足もその後再開され(多摩第一小学校『学校のあゆみ』)、多摩・日野・七生・稲城・由木の学校対抗によるドッジボール大会も盛んだったといわれている(日野の昭和史を綴る会編『聞き書き・日野の昭和史を綴る』)。

図1―10―22 井の頭公園への遠足(昭和16、17年ごろ)

 事務報告書によると、多摩村では昭和六年から下川原の四年生までの子どもを、西府村(現・府中市)の奇秀(きしゅう)尋常高等小学校(現・府中第五小学校)に委託している。だが、それでも子どもの数は増え、村では将来の増加を見越して昭和七年六月、本校の増築と二つの分教場の改築にふみきった(資四―123)。戦時中、軍事費の負担が増大し、校舎の増築がおくれて二部授業となるところもあるなかで、翌年の十一月には落成式を行っている(「備忘録」)。
 昭和九年以降、日野の工場誘致が積極的に進められ、進出した企業によって多くの少年工が募集された(『読売新聞』昭和十一年一月十九日付)。三多摩への工場の進出に対応し、八王子職業紹介所では小学校を巡回して、卒業予定者を対象に就職の指導をしている(『東京日日新聞』昭和十三年一月二十二日付)。子どもたちの学歴も上がり、昭和十年前後には、高等小学校卒業者が村の若者の主流となっていた(多摩市行政資料)。しかしその一方で、日中戦争の進展とともに、農村労働力の不足が問題となる。戦争の影はしのび寄り、そのため子どもも貴重な労働力として、国家のためにつくすという大きな役割が課せられていった。昭和十四年四月、東京府は農繁期に小学生を動員するよう各学校に伝えている。(『東京日日新聞』昭和十四年四月二十二日付)。田植えや麦刈りなど農繁期に家の農作業を手伝う農繁休暇は強化され、学校では害虫を買い上げ、ずい虫取り、しゃくとり虫取りが行事として定着した。
 昭和十六年四月には戦時体制に対応するため、学校制度そのものも改められ、小学校は多摩国民学校となる。「皇国民」の錬成を課題に、義務教育は初等科六年、高等科二年の八年にのび、それまでの教科も国民科・理数科・体錬科・芸能科・実業科に統合された。なかでも、総力戦をになう力強い「少国民」を育てるために体育が重視され、体錬科には新たに剣道、柔道、なぎなたといった武道がとり入れられた。運動会も「体錬会」と名称を変え、戦時を反映した演目がならんでいる(『多摩町誌』)。学外でも、この国民学校と一体化したかたちで、初等科三年以上の児童を団員に少年団が組織された。少年団は稲葉校長を団長に分列行進などの訓練を行い、体錬会でその成果を披露している(多摩市行政資料、『多摩町誌』)。
 それでも、多摩村の決算を見ると、昭和十七年(一九四二)には展覧会、学芸会、遠足といった以前から続く行事も残っているが、戦争が激しくなり労働力の不足が深刻となるにつれ、授業をつぶして出征遺家族への勤労奉仕が行われた。昭和十九年七月に閣議が国民学校高等科生徒の勤労動員を決めると、多摩国民学校でも、高等科の男子の一部が府中の日本製鋼所武蔵製作所に動員されている(『毎日新聞』昭和二十年一月十四日付)。さらに昭和二十年三月の決戦教育措置要綱で、国民学校初等科以外の授業が四月から一年間停止された。
 「昭和二十年度国民学校日誌」(多摩市立第一小学校蔵)を見ると、高等科の生徒は四月から連日、勤労奉仕に動員されていることがわかる。子どもたちは学校農場での作業を中心に、ときには農家への援農、薪の運搬、防空壕掘り、竹細工づくり、軍人が丸腰で作業をしていた松根油(しょうこんゆ)採取場での水汲み作業まで割当てられた(資四―150)。学校農場で栽培されたヒマの種からとれるヒマシ油は、飛行機の潤滑油となり、松の根を掘り釜で乾溜(かんりゅう)して大量の水で冷やしてとれる松根油は、飛行機の燃料になる。また竹細工づくりも、学校に駐屯していた軍隊の求めに応じた竹製の食器づくりのようで(『町田市教育史 上巻』)、この作業を皮切りに初等科の児童まで勤労奉仕に動員された。国民学校生徒による勤労奉仕の内容は援農だけでなく、「本土決戦」にむけて軍用物資の生産にも広がっていく。
 戦局が悪化するにつれ、政府は学童集団疎開の実施に踏みきり、多摩村と稲城村には、昭和十九年八月、品川区の山中国民学校(現・品川区立山中小学校)の子どもたちがやってくる。そのうち多摩村では、表1―10―7のように三つの寺が疎開学童を受け入れ、宿舎兼教室として使われている。吉祥院に四年生男子三七人、大福寺に五年生男子三三人、高蔵院に五年生女子二一人が、教員、寮母とともに本堂で生活を続けた(資四―148)。午前中に勉強し、午後は勤労奉仕に出かける。そして、土、日になると、親が見にきて、お菓子を渡すという光景も見られたという(吉祥院・大福寺・高蔵院聞きとり調査)。しかし空襲が激しくなると、昭和二十年三月の東京大空襲で親を失う子も出て、同年五月の空襲では山中国民学校が焼失し、子どもたちの帰るべき学び舎が失われた。
表1―10―7 多摩村内の疎開学寮
学寮名 寮舎所在地 電話 最寄駅 収容児童数 使用畳数 教員数 学寮長名 寮母数
性別 3 4 5 6 合計
山中国民学校
吉祥院学寮
南多摩郡多摩村
乞田吉祥院
京王線聖蹟桜ヶ丘 37 37 50 1 青木房治 2
37 37 1

大福寺学寮

貝取大福寺
33 33 47.5 1 武田梅蔵 1
33 33 1

高蔵院学寮

和田高蔵院
35 伊奈まつ 教員寮母兼
21 21 1
21 21 1
品川区立品川歴史館編『品川の学童集団疎開資料集』より作成。