青年学校と青年団

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昭和十年四月、青年訓練所を廃止し、実業補習学校の校名と学則を変更することで、多摩青年学校が生まれる。独立した校舎をもたない青年学校の授業は小学校で行われ、校長は小学校の稲葉校長が兼任し、地域の軍隊経験者である指導員を除いて、教員も兼任が主体であった。多摩村では、この青年教育を支えるため、村長が会長となり多摩青年学校振興会を組織している(資四―124)。
 発足当時の多摩青年学校学則(多摩市行政資料)を見ると、青年学校には二年間の普通科、男子五年、女子三年の本科、男子一年、女子二年の研究科が置かれ、小学校尋常科卒業者は普通科へ、高等科卒業者は本科へ入学し、本科卒業者は研究科に入ることができた。学科は職業、実生活に役立つ知識と技能の修得を念頭に組まれ、とりわけ男子は軍事能力を高めるための教練、女子は「軍国の花嫁」としての教養を養うため家事裁縫に力が注がれる。こういった日ごろの学習の成果を問う教練査閲、野外演習、青年学校大会などは、他の地域の青年学校と合同で行われるため、青年学校の行事は連合によるものが多かった。例えば青年学校大会では、各校が代表選手を送り、男子は武道、女子は早縫いで競っている(『東京日日新聞』昭和十三年二月八日付)。このほか射撃大会、体錬会、富士山登山行軍も行われた(峰岸松三編『落合の出来事覚書』)。
 昭和十四年(一九三九)四月からは、男子の就学義務制が実施される。同じ年の事務報告書によると、多摩青年学校の生徒数も多少増えており二〇三人となった。しかし、戦時中ではこの年が最も多く、生徒の数は毎年二〇〇人に満たない数で推移している。昭和十六年五月には、皇居で青年学校生徒御親閲式が行われ、多摩青年学校の生徒も全国から選ばれて参加した(多摩市行政資料)。その後戦争が激しくなると、生徒たちは勤労動員にかり出され、落ちついて授業を受ける機会は失われていく。
 一方で青年学校の生徒たちは、青年団にも加わっている。義務教育を終えた二五歳未満の男女青年で組織される多摩村青年団は、各支部の活動を支えるとともに、本団の事業を積極的に進めるため、昭和八年の時点で文芸部、競技部、旅行部、産業部といった各部を本団内に置いている。文芸部は青年団の機関誌の発行、競技部は運動会の準備、旅行部は春と秋の旅行の企画をそれぞれ担当し、産業部は農事試験場を見学して農業技術の紹介につとめ、各支部の運営資金となる農場経営に役立てられた。

図1―10―23 多摩村青年学校の鶴岡八幡宮自転車行軍

表1―10―8 多摩村の青年団員数
昭和9年 昭和11年 昭和12年
男子 女子 男女計 男子 女子 男女計 男子 女子 男女計
関戸 25 14 39 23 5 28 18 12 30
連光寺 19 11 30 19 6 25 14 11 25
馬引沢 9 8 17 10 10 20 8 10 18
下河原 8 8 8 8 8 8
東部 12 11 23 15 15 30 15 14 29
貝取 16 11 27 13 7 20 13 6 19
乞田 18 15 33 20 13 33 18 17 35
落合 27 22 49 30 31 61 31 28 59
和田 29 30 59 23 28 51 17 23 40
東寺方 23 9 32 25 10 35 23 14 37
一ノ宮 15 10 25 12 14 26 11 11 22
合計 201 141 342 198 139 337 176 146 322
『多摩青年』1・4号、「昭和十一年多摩村青年団概要」より作成。

 昭和八年(一九三三)の本団の活動記録によると、在郷軍人分会と国防協会につながりをもった行事も見られるが、それでも俳句会、短歌会、陸上競技大会のほかに、この年から初めて雄弁娯楽大会が開かれ、青年団は若者たちの交流の場として活動している(資四―126)。同年五月十七日には、臼井丈助団長が辞職し、後任に寺沢鍈一が選ばれた。団長のポストが村長ではない寺沢に引き継がれたのち、青年団の活動はさらに活発となる。八王子と南多摩の文化運動の指導者・松井翠次郎の表紙デザインによる多摩村青年団機関誌『多摩青年』が創刊され、短歌と俳句を載せた『文芸月報』もひと月おきに発行された。昭和八年十月に初めて行われた多摩・七生・由木・忠生・稲城の五か村青年団連合陸上競技大会では、寺沢が大会会長としてリードし、多摩村で開催している(多摩市行政資料)。
 しかし、昭和十年度から多摩村青年団では、指導支部の設置が試みられた。これにより、東京府青年指導員が理想的な支部を目指して、指定された指導支部の活動をチェックすることとなる(『東京日日新聞』昭和十年二月二十三日付)。『多摩青年』三号(土方金一郎氏蔵)には、さっそく指導員の文章が巻頭に続いて載り、青年団女子部を嫁入り前の修養機関と位置づけて、修養面の活動の重要性が強調されている。指導員の影響を受けてか、昭和十一年一月十七日には、多摩村青年団の団則が改正された。「昭和十一年多摩村青年団概要」(多摩市行政資料)を見ると、役員の顔ぶれも変わっており、村長の下野延太郎が会長に、前団長の寺沢は副団長に退いている。本団内の各部の名称も、学芸部、産業部、体育部と変わり、新たに修養部が加わった。
 修養を強調する指導員の影響は、支部組織にも及んでいく。例えば、村内で最も多い会員数をほこり、主体的な活動を繰り広げていた落合支部は、昭和十一年に指導支部の指定を受けた。横倉千鶴子が落合支部の活動を紹介した文章「小さき歩み」(多摩市行政資料)によると、落合青年倶楽部の完成とこの指導支部の指定を起点に、支部活動は飛躍的に発展し、修養会が毎月開かれるようになったという。落合支部のなかにも、本団と同様に修養部、体育部、学芸部、産業部が置かれた。修養部が担当する修養会では、当時大日本青年団が発行していた青年カードを輪読することで、時事問題の見方、青年としての心構えを学んだといわれる(峰岸松三「想い起しの記 第七巻」)。さらに、日中戦争がはじまると、出征兵の見送り、遺骨の出迎え、村葬への参列、出征遺家族に対する勤労奉仕、慰問袋の作製といった銃後支援の活動が加わり、それらがしだいに青年団活動の中心となっていった。