図1―10―24 南多摩郡青少年団結成式の記念写真
青少年団では、青年団と青年学校、少年団と小学校というように学校教育との一体性を保つことが目指され、青少年団長には村長、青年団長には青年学校長、少年団長には小学校長が各地で任命された。多摩村でも同様に、小金豊成が青少年団長、稲葉良仁が青年団、女子青年団、少年団の団長になっている(多摩市行政資料)。また、各支部の役員もすべて上から任命され、支部の名称も部落名ではなく番号で呼ばれることになり、上意下達機関の性格を強めていった。従来二五歳まで正団員であった男子青年団も、青少年団の発足にともない、普通団員は青年学校生徒あるいは一四歳から二〇歳の青年と改められている。
新たに発足した青少年団の活動は、出征遺家族に対する勤労奉仕、慰問袋の作製、村葬への参列といった銃後支援が中心であった。このほか、はちまき姿で分列行進をする動員訓練も加わり(『東京日日新聞』昭和十六年十一月二十一日付)、戦争の進展とともに、各支部のユニークな行事は制約を受けざるをえなかった。
しかし、そのような空気のなかでも、特色ある伝統行事は昭和十七年(一九四二)ごろまで残っている。例えば、青少年団の発足で多摩村青年団第八分団となった落合支部では、大正八年(一九一九)から続く春の支部運動会を、昭和十七年にも開いている。また、村民に娯楽を提供する青年団の活動も絶えていない。昭和十七年十月には、山王下の演芸慰安会が白山神社で開かれた。当時第八分団長だった峰岸松三が、慰安会終了後、青年団長にあてた報告書には、次のような開催の主旨が書かれている(多摩市行政資料)。
イ、大東亜戦争完遂、長期戦ニ備ヘ第一線将兵ヲシテ後顧ノ憂ヒナカラシムル為、出動戦没軍人遺家族ニ感謝シ慰安会ヲ催シ、又国民ノ慰安ニ務メ、ソノ志(ママ)気ノ鼓舞ニ務メ、以テ銃後戦線ノ強化ニ全力ヲ傾致スルタメ。
ロ、出動軍人・戦没軍人・遺家族慰安会並ニ銃後国民ノ慰労、青年団ヲシテ和楽ニ団体精神ヲ振作スルタメ。
ハ、農村ノ和楽ニ務メ、明日ヘノ勤労ニ今夜ノ慰安会ヲ以テ、銃後ノ戦線ヲ強化ナラシメ、長期線(ママ)ニ備ヘル点。
ロ、出動軍人・戦没軍人・遺家族慰安会並ニ銃後国民ノ慰労、青年団ヲシテ和楽ニ団体精神ヲ振作スルタメ。
ハ、農村ノ和楽ニ務メ、明日ヘノ勤労ニ今夜ノ慰安会ヲ以テ、銃後ノ戦線ヲ強化ナラシメ、長期線(ママ)ニ備ヘル点。
ここでは、出征遺家族をはじめ銃後国民の慰安、青年団員の団結力を養うなど、慰安会が戦争のためになるという、ありとあらゆる理由が強調されている。それだけ、戦争と娯楽は相いれないという風潮のなかで、慰安会を自由に開く余地はせばめられていたといえよう。
舞踊 | ||
そうだその意気 | 佐伯先生(国民学校) | |
村は土から | 佐伯先生 | |
瑞穂踊り | 佐伯先生 | |
戦陣訓 | 横倉絹枝(第五班女子団員) | |
靖国神社の歌 | 横倉絹枝 | |
海の進軍 | 尾崎先生(国民学校) | |
木曽節 | 横倉絹枝 | |
朝だ元気だ | 尾崎先生 | |
軍国子守歌 | 横倉絹枝 | |
大東亜決戦の歌 | 尾崎先生 | |
大空に起つ | 横倉絹枝 | |
九段の誓 | 横倉絹枝 | |
赤城の子守歌 | 宿村佐一(東寺方) | |
剣舞 | ||
川中島 | 井上先生(国民学校) | |
詠日本刀 | 井上先生 | |
正乾坤 | 井上先生 | |
皇軍無敵 | 井上先生 | |
失題 | 寺沢タメ(第二班女子班長) | |
唱歌劇 | ||
桜井の別れ | 佐伯先生 | |
石童丸 | 小泉キク(第三班女子班長) | |
踊り | ||
伊勢音頭 | 田中唯一・小泉力造 | |
かっぽれ | 田中唯一・小泉力造 | |
浪曲 | ||
森の石松 | ||
鬼吉の□□ | ||
現代劇 | ||
兄姉弟 | ||
形見の軍刀 | ||
妹の歌 | 峰岸松三 | |
時代劇 | ||
森の石松の最後 | ||
忠臣蔵五段目 | 田中唯一・小泉力造 | |
やくざ道中かたぎの勝利 | 加藤武男 | |
落語 | ||
薮医者 | ||
黄金の大黒 | ||
三番叟 | 田中唯一 | |
幻燈映画 | ||
無敵皇軍の威 | 小林正治 | |
花と子供 | 小林正治 | |
戦う銃後の姿 | 小林正治 | |
カンチャンの隣組 | 小林清治 | |
働く兄妹 | 小林正治 |
「多摩村青年団・女子青年団第八分団(落合)慰安会報告」(多摩市行政資料)より作成。 |
このときのプログラムには、舞踊、剣舞、現代劇、時代劇、落語、浪曲、幻燈機による映画などが載っている。伝統的な踊りを活かすという点から、とりわけ地域の年輩者と国民学校の教員が当日まで率先して指導し、他の地区からの応援も来ていた。また、演目のなかには伝統的なものにかぎらず、「村は土から」といった新しいものも含まれている。食糧増産に励む農民を讃えて、農山漁村文化協会が制定した農民歌「村は土から」は、昭和十七年六月に発表され、歌唱と舞踊の普及指導が各地で行われていた(『音楽文化新聞』十八号)。ほんの数か月で、この制定歌がプログラムにあげられ、村に浸透しはじめていることも、また興味ぶかい。
昭和のはじめまでは、車人形の高村十蔵、八王子の一二三(ひふみ)、神代神楽の西川といった一座に依頼して村芝居が開かれていたが、昭和十年代になると、青年団員による素人芝居が各支部でさかんに行われた(峰岸松三編『落合の出来事覚書』)。ここで取り上げた落合だけでなく、昭和十七年には東寺方でも青年団の素人芝居が開かれている(『写真で綴る多摩一〇〇年』)。しかし、こういった青年団の特色ある行事はその後影をひそめ、地域文化の担い手として活躍した青年団員たちは、戦場へ、軍需工場へと、つぎつぎにかり出されていった。
図1―10―25 東寺方演芸会に来た観客