杉田武義と村雄

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杉田武義の村医としての取り組みについては、十章三節でとりあげた。しかし、かれの功績はこれだけにとどまらない。子どもたちの健康と健全な発育にも強い関心をよせていた杉田は、児童の栄養改善のために学校医として積極的に活動を行い、その活躍は村内だけでなく全国レベルに及んでいった。
 明治十年(一八七七)に東寺方で生まれた杉田武義は、済生学舎(現・日本医科大学)と伝染病研究所で医学を学び(済生学舎同窓会『済生学舎同窓会名簿』)、特に伝染病研究所では、北里柴三郎のもとで第一六回研究生として、明治三十一年十月から伝染病学などの講習を受けている(『細菌学雑誌』三五号)。当時伝染病研究所には、志賀潔や野口英世といったそうそうたるメンバーが職員として在籍していた(『伝染病研究所一覧』)。

図1―10―26 伝染病研究所の講習会参加者

 高度な医療技術をマスターした杉田は、牛込区(現・新宿区)の市ヶ谷田町で杉田医院を開業したのち、東寺方でも玉南医院を開く。そして父の死をきっかけに、昭和十年(一九三五)ごろ生家に戻り、その後多摩村に定着して医療活動を続けた(東寺方地区座談会)。
 その間、杉田は子どもたちの栄養面から、学校用肝油ドロップの普及に協力している(渡辺勇三『河合製薬の歩みとともに』)。そのかたわら、文部大臣に対する答申も起草していた。例えば昭和十年十一月、文部大臣は六大都市学校衛生協議会に対して、都市児童の発育の問題に関する諮問を行っているが、かれは一年間の調査ののち「都市小学校児童発育健康ノ状態並ニ之レガ対策ニ就テ」という報告をまとめている(『日本学校衛生』二五巻一号)。
 その一方で、かれは昭和九年十月の東京市の学童栄養週間に合わせて「学童栄養歌」を作った(『日本学校衛生』二二巻一一号)。「母さん作ったお弁当は、栄養弁当よ、おいしいな」ではじまるこの歌は、中山晋平が作曲している。日ごろから、トラホームと寄生虫で苦しむ子どもを目にしていた杉田は、歌を通して栄養改善・健康増進の重要性を広く一般に認識させ、早くみんなが学校に弁当を持っていくような環境になることを願っていた。そのため、子どもたちがすぐに口ずさみ、知らず知らずのうちに広まっていくように、この歌はわかりやすい言葉と親しみやすいメロディーで書かれている。
 その後、学童栄養歌はラジオで全国放送されたといわれる。昭和十六年には、日本ビクター株式会社から非売品としてレコード化された。レコードの裏面には、杉田自身の肉声による曲の解説が吹きこまれ、次のように語りかけている(杉田誠氏蔵)。
……つねに健康の増進をはかり、体力の増加に努め、知育偏重の弊に陥らぬよう細心の注意をはらうことが肝要であります。学童の身体に関し栄養問題がいかに重要であるかは、いまここに事新しく申し述べる必要もないことと信ずるのであります。

 「欲しがりません勝つまでは」と軍需生産が優先され、年を追うごとに食糧は不足し、栄養の低下が進む。戦争の拡大とともに、「警鐘」にも聞こえる杉田の主張を、もはや十分に受け入れるような社会ではなくなっていた。
 杉田武義の後を継いだのは、二男の杉田村雄である。かれは医者にはならなかったが、また父とはちがった個性的な道を歩んでいる。明治三十六年(一九〇三)生まれの村雄はサラリーマン生活を送るかたわら、日本の音楽文化の発展を側面から支え続けた。

図1―10―27 昭和15年当時の杉田家
中央・杉田武義、左端・杉田村雄。

 そもそも、杉田村雄の音楽との出会いは早かった。暁星中学時代にマンドリンを習い、暁星マンドリン・クラブに入っている。その後も音楽活動を続け、第一生命在職中の昭和十四年(一九三九)からは、オルケストラ・シンフォニカ・タケイ(以下OSTと記す)に参加した(『ギターミュージック』六六号・『日本マンドリン連盟本部会報』八二号)。ちなみに、OSTの前身は、大正五年(一九一六)に生まれた社会人による日本初のマンドリン合奏団にあたる。その創設者・武井守成(もりしげ)男爵は、宮内省の仕事をしながら、OSTをマンドリン音楽紹介の担い手におし上げるとともに、作曲、研究誌の創刊、資料の収集、コンクールの開催など、日本のマンドリン音楽発展の中心的な役割を果たしていた。
 この武井が、昭和二十年五月から敗戦をはさんで約五か月ほど、多摩村の農家の離れで生活していたことがある。空襲で焼け出され、田舎のない武井一家を東寺方に招いたのは、杉田村雄であった。亡くなるまでに武井は、ギター独奏曲やマンドリン合奏曲など一二〇曲近い作品を残しているが、そのなかには多摩村疎開時代に書かれた「蚤(のみ)」「木犀(もくせい)」という二つの作品がある。杉田と同じ電車で東京に通勤しながら、他方でかれは作曲活動を続け、多摩村での日々の生活と美しい風景を題材にしていった。
 昭和二十四年の武井の死後、杉田村雄はOSTを引き継ぐ。理事長としてOSTの運営と指揮にあたった。また、日伊音楽協会理事長、日本マンドリン連盟副会長などを兼任するかたわら、杉田は武井が収集した楽器と楽譜を私費で譲り受け、さらに武井作品の出版にも力をつくす(『日本マンドリン連盟本部会報』八二号)。散逸を防ぐため、かれが自宅で大切に保管していた武井音楽文庫は、現在国立音楽大学附属図書館に寄贈されている(CD解説書『復刻・幻のマンドリン名演集』)。
 このように、学校衛生の分野で活躍した杉田武義、音楽文化の発展に力をつくした村雄という父と子が多摩村にいたことは、今日忘れられつつある。