昭和十二年九月から二十年四月まで記載のある「多摩聖蹟記念館日誌」(多摩市教育委員会蔵)によると、表1―10―10のように、年間の拝観者総数は昭和十九年以降激減しているものの、十八年まで増加の傾向をたどっていた。また月別では五、十、十一月が多く、春秋の行楽シーズンに集中しており、ときには一日の来館者数が二〇〇〇人をこえる日もあった。
表1―10―10 多摩聖蹟記念館の年間拝観者数の推移
「多摩聖蹟記念館日誌」より作成。
注)1 1937年は9月以降のみ記載されている。
2 1939年10月から1940年2月まで記載されていない。
3 1945年は3月まで記載されている。
2 1939年10月から1940年2月まで記載されていない。
3 1945年は3月まで記載されている。
さらに、「日誌」から拝観者の顔ぶれを見ると、昭和十七年(一九四二)までは皇族の来館があり、皇族以外には軍人が多く足をはこんでいることがわかる。例えば、昭和十三年七月には林銑十郎(せんじゅうろう)前首相、同年十一月に板垣征四郎(せいしろう)陸相、十五年十月に永野修身(おさみ)海軍大将がそれぞれ訪れている。また昭和十七年十月には、東条英機首相、杉山元(はじめ)参謀総長ほか八〇人の拝観の申込を受けていた。一方、団体拝観では東京と神奈川の各学校が多く、なかには記念館周辺の草刈り奉仕を行う小学校、青年学校もあった。このほか青年団、婦人会、職場単位でも「聖地」を訪れ、「聖戦」必勝の願いをこめている。
こうして訪れたのは、日本人だけではない。昭和十五年七月には、約六〇人の満州国学童使節が満州国大使とともに来訪した。府中警察署の指導により、管内に住む朝鮮人で組織された東京府協和会府中支会でも、昭和十六年六月、約九〇人の青年部員が総合訓練終了後に見学している(樋口雄一編『協和会関係資料集Ⅲ』)。このように、記念館は皇民化のための教育の場としても利用されていた。
十一月三日の明治節には、記念館で式典が行われる。これには、多摩国民学校の子どもたちも参加した。学校での式が終わったのち、一部の上級生がまた記念館の式典にも出席していたという(東寺方地区座談会)。
他方、「聖地」と呼ばれた多摩聖蹟記念館の周辺には、日中戦争後から修養道場の建設が進められた。昭和十四年三月の田中光顕死去後、記念館の敷地に徳富蘇峰筆の田中の詩碑が建てられるとともに、田中が会長をつとめていた多摩聖蹟記念会は「多摩聖蹟少年修養道場建設趣旨」(多摩市教育委員会蔵)をまとめ、賛同者を求めている。この動きとの関連はわからないが、多摩村では昭和十五年二月の村会で、連光寺に青少年修練道場を建設することを決め(「村会議録案及決議」多摩市議会蔵)、できあがった道場は青少年団の錬成講習会などに使われた。
図1―10―28 田中光顕詩碑除幕式(昭和15年4月)
明治天皇の遺徳をしのび、教育勅語と戊申詔書の精神を伝えようと、大正十年(一九二一)十一月に生まれた財団法人・奉仕会でも、多摩村に修養道場を建設するため、昭和十六年三月、用地買収に乗り出している(『奉仕会十年誌』・『東京日日新聞』昭和十六年三月二十七日付)。その結果、現在桜ヶ丘一丁目にある琴平社(金比羅宮)の南に、奉仕会桜ヶ丘道場がつくられた。翌年十一月二十二日の落成式には、会長の荒木貞夫陸軍大将が出席したという(『読売報知』昭和十七年十一月十五日付・関戸地区座談会)。昭和十八年七月には、この奉仕会桜ヶ丘道場で日本文学報国会の第七回錬成会が行われた(『文学報国』一号)。作家、詩人、歌人、俳人など一七人が集まった二日間の錬成会で、参加者たちは荒木貞夫の「日本精神」に関する講話に耳をかたむけ、神前の礼拝作法を習っている(資四―147)。高浜虚子とその一門が関戸を訪れた昭和七年(一九三二)には東京に近い観光地であった多摩村も(『ホトトギス』三五巻八号)、戦争が進むにしたがい文化人にとって疎開地あるいは錬成会場となっていった。
図1―10―29 桜ヶ丘道場での荒木貞夫(昭和19年9月)
昭和十九年に入ると、戦局は悪化の一途をたどる。この流れと重なり合うように、記念館への来館者の数も急激に減った。昭和十九年の拝観者総数は二万三七八九人と、前年に比べ三割にも満たない。来館者ゼロの日も増えた記念館は、昭和二十年三月二十一日から閉館となった。