昭和の戦後改革と多摩村

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 昭和二十年(一九四五)八月十五日は、時の流れという舞台が近代から現代に回っていく一つの区切りにあたっていた。この日、国民の多くは、天皇の読みあげる「戦争終結の詔勅」の録音によって、日本がアジア・太平洋戦争に敗れた事実を知り、悲嘆、痛憤とさまざまな感情を交えながら大きな衝撃を受けたのである。いまでも「終戦記念日」と呼ばれるこの日は、第二次世界大戦の最後の幕が降りた時であり、まさに、ここから現代史はスタートを切ることになる。
 戦中から戦後へ、近代から現代への移り変わりは、国全体や世界の動きから説明するだけでなく、多摩村の景観の変化のなかにもみいだすことができる。その変貌の根幹をなしているのは、多摩村が都市近郊農村の姿をみせはじめ、農業経営の内容が、明治・大正の純農村の時代とくらべて多角的になり、農作物の商品化がいっそう進んでいるところに認めることができる。いま、昭和の戦前から戦中にかけての農産物で目立つのは、米・麦・雑穀・豆類などの生産とともに、繭の生産数と畜産の価格が大幅に伸びていたことである。『東京府市町村勢要覧』(東京府)によると、耕地面積の約六〇パーセントを占める畑のうち、昭和五年には桑園が約五五パーセントを占めていて、昭和十五年にはさらに拡大し、約五八パーセントの率に達していた。また、この年の畜産価額は、五万九四四〇円に伸び、物価上昇分を考慮したり、食糧増産の掛け声を計算にいれたにせよ、昭和四年とくらべると約一一倍になっていた。
 多摩村が、戦前から戦中にかけて都市近郊農村の姿を整えるようになったのは、農業の面からだけではない。大正十四年(一九二五)には玉南電気鉄道(現京王電鉄)が多摩川を越え、東京市のターミナルの一つ新宿と絹糸・絹織物の集散地である商都八王子とを結ぶようになり、市域の北部に関戸駅(現聖蹟桜ヶ丘駅)が設置された。この関戸駅と昭和十二年(一九三七)に完成をみた多摩川の関戸橋は、村のたたずまいを確実に変えていくきっかけになっていた。さらに、この間、昭和二年に、村役場にも電話が通じ、利用されるようになったのも村がますます都市経済と結びつきを強める一つの条件となっていく。
 村や村びとが、こうして新宿や機業地八王子、さらには高幡不動(現日野市)をはじめ京王沿線の観光地との結びつきを強めるなかで、村自体も開発の道を進んでいった。すでにふれた多摩聖蹟記念館の開館という明治天皇の「聖蹟」を記念する事業を皮切りに、連光泉、花の山、森林公園等々の観光設備に意を配っていったのはその証しであろう。
 さらに、村の人口と戸数・世帯数も戦中から戦後にかけていちじるしく増えていった。昭和十五年に村の人口は五一五八人、戸数は八五五戸を数えていた。この人口数などは、明治・大正時代から徐々に増加してきた数字で、たとえば第一次世界大戦期とくらべてみて、人口で約一〇〇〇人余、当時の世帯数から推定して一五〇戸内外の増となっている。ところが戦時中から戦後にかけて、村の人口と戸数は急増した。というのは、アジア・太平洋戦争に日本が敗北して二年後の昭和二十二年に、村の人口は、七三五六人に達し、戸数は一三七〇戸に膨張していたからである。この人口・戸数増は、戦時下、空襲や戦災の難を逃れて都心から身寄りや縁故を頼って疎開してきた人たちが村に居住していたからである。
 このように、人口増や村の農業経営の多様化とか、たたずまいが変化の兆(きざ)しをみせはじめ、村自体が都市近郊農村へと脱皮していくなかで、多摩村は現代への条件を整えていくことになる。と同時に、多摩村の現代への移行も、戦災の大きな爪跡はまぬがれたとしても、戦後への立ち上がりは、御多分に洩れず、戸惑いを隠し切れず、かならずしも手順はよくなかった。それというのも、戦時中にこの村に建設された多摩火工廠の第三・第四工場とその用地および旧戦車道路用地をどう処理するかという問題をかかえていたからであるが、さらに戦争下から戦後にかけての社会・教育の管理・運用の転換に手間どったからでもある。
 たしかに、戦争末期の村のなかは浮き足だっていた。多摩聖蹟記念館の『日誌』や多摩国民学校の『学校日誌』によると、とくに、昭和二十年の三月の半ばころからは、ひっきりなしに米機来襲の警戒警報のサイレンが鳴り響き、四月以降になると空襲警報が発令され、下旬には二回にわたり立川飛行場や周辺の軍事施設には約一〇〇機~一二〇機のB29爆撃機が爆弾を投下した。多摩村も、この間、四月四日、聖蹟記念館の東方に爆弾三〇個を投下されたり、五月以降も何回となく小型機の来襲を受けていた。こうした非常事態のもとで、国民学校の上級生である高等科の生徒は、開墾地の整理や桑根抜き取り、畑の除草などの農作業、松根油採取、薪の搬出、防空壕掘りという勤労奉仕に駆りだされていた。また、村には、多摩村防衛隊が組織され、国民学校の校庭を使用して訓練を行っていたのが、村の戦争末期の風景であった。そして、国民学校に東京師管区部隊が移駐してきたり、近隣駐屯の小隊が教室借用を申し込んできて村の「兵営」化も一気に加速していた。
 村の戦時から戦後への切り換えは『学校日誌』でみるかぎり十月にはいってからのようである。たしかに、多摩国民学校では、「戦争終結の詔勅」が全国に流れた翌日、朝から職員会議が開かれ、さらに八月十七日には全校の児童・生徒を集めて、学校長が訓話をし、日本の敗れた事態を説明していた。しかし、全校をあげて九月からの二学期始業の準備にとりかかり、青年学校の兵具類を整理したとはいえ、戦時下の行事は継続していたようである。たとえば、敗戦の日から数えて一か月以上も経った九月下旬から十二月にかけて多摩村合同慰霊祭を挙行したり、多摩陵遙拝や大神宮奉仕の行事を行ったりしていた。なかでも、大神宮の奉仕日には神宮を遙拝し、国旗を掲揚したりしていた。また、小学校では校長が児童・生徒に対して神嘗祭にかんする訓話や教育勅語下賜記念日奉読式、明治節奉祝式をしたりして、戦前からの行事を継続していたのである。
 このように、村や学校は、戦時体験の尾を引きずりながらも、十月には村内の小野神社、白山神社、八幡神社に「終戦報告祭」を行ったり、下旬には農村慰安演芸会を催し、戦時中の空気は、少しずつ和らぎはじめていた。この間、連合国軍の米将校が小学校を訪れ、十月の末には、憲兵(エム・ピー)七人が校内の各施設を点検して、武道教授用の木銃七九挺ほか、薙刀、木刀などを焼却した。もっとも、多摩青年学校では八月末に銃八〇挺、軽機関銃一挺をすべて焼いていた。さらに、この年十一月には多摩火工廠は米空軍の多摩弾薬庫として接収され、第四工場に残っていた火薬を爆破処理した。占領軍のこのような非軍事化への強制力と、既にのべた慰安演芸会や農業会主催の慰労会とか、不安にかられなくてすむ未利用資源の採集や農作業への取り組みにより、新しい時代にはいりつつあった。
 村の現代史のスタートともいうべき民主化への切り換えがはっきりとみえてくるのは、多摩国民学校の『学校日誌』からみても、昭和二十年の暮れから翌年の春にかけてのようであったらしい。教育面では、まず、平和国家、文化国家の建設、自由主義・民主主義の理解の徹底を図る趣旨で敗戦の年の十二月はじめには、町田の玉川学園で新教育講習が行われていた。こうして、校長会、教頭講習など、学校のリーダーたちは、新しい教育を身につけるような会合への出席を義務づけられていった。
 また、婦人参政権に関する講習、青年政治講座が開かれたり、連合国軍最高司令部(GHQ/SCAP)のヴード中尉と国民学校教職員との会合も二日間にわたったりした。そして、新生青年団を結成する動きや南多摩教員組合準備委員会があらわれ、戦後の新しい息吹を呼びおこすような雰囲気がつくられていった。こうした事態のもとで、昭和二十一年三月には多摩地方の二市三郡教員組合の総会が開かれたり、この間二月には多摩村農民組合が組織され、占領下での戦後改革に第一歩を踏み出したのである。
 村の戦後改革は、現代の歩みをものがたるものであり、その改革は教育と農業面から具体化され、新しい動きとして教員組合、青年団と農民組合が出現した意味は大きい。そこにはGHQ/SCAPのいう合衆国型民主主義であるトレード・ユニオニズムの色彩が表面化していたともいえよう。事実、すでに敗戦の年の十月十一日、D・マッカーサーは、幣原喜重郎首相に、婦人の解放、労働組合の結成の奨励、学校教育の自由主義化、秘密審問司法制度の撤廃、経済制度の民主主義化という民主化に関する五大改革を指令していた。この改革の線に沿うかたちで、村での民主化の波は高まろうとしていたのである。
 この事情を教育の場でとらえなおしてみると、文部省が、教科書の戦時教材の削除について通達をだし、教室で児童や生徒が筆と墨で教科書を塗りつぶすというだけにとどまらないで、教育基本法(昭和二十二年三月十日)につながる「個人の尊厳」を重んじた「真理と平和を希求する人間」を育成する「科学的思考力」の養成を目指していた。この指針は、いちはやく敗戦の日からちょうど一か月後に文部省が打ちだした「新日本建設の教育方針」を地でゆくものでもあり、新しい教育の創造に教員たちは意欲を燃やしていたようである。
 また、農業経営にかんしても、大正期からの必然的な命題である自作農創設への抜本的なプランが、戦後改革への目安となっていた。敗戦の年の暮れ、日本の政府が作成した不在地主の所有するすべての小作地と在村地主の五町歩(五ヘクタール)を越える小作地の強制譲渡、小作料の金納化などの構想は、GHQ/SCAPの農地改革に関する覚書がだされた直後であったとはいえ、自主的な試みであったといえよう。この案は、結局のところ、GHQ/SCAPの勧告により、在村地主の貸付土地保有の限度を一町歩に引き下げ、耕作権の物権化、地主の土地取り上げの禁止、小作料の金納化などを主な内容とする第二次農地改革(昭和二十一年十一月)を待たねばならなかった。この間、多摩村でも、多摩村農業会の「昭和二十一年度多摩村農業会事業収支計画」の事業計画の一つに、村落ごとに「適正経営農家」の調査を行って、自作農創設事業を推し進めるための資料収集につとめることを掲げていた。
 第二次農地改革後の多摩村における農地委員会の活動については、昭和二十二年から二十三年にかけての資料が残っている。『多摩市史 資料編四』に収録してあるこれらの記録をみていて、未墾地の開墾問題や買収に関する異議申し立てや不服のトラブルの処理とか、農地の売り渡し代金の徴収事務の協議議題を重視すると、多摩村では昭和二十三年の春から夏にかけてが、農地改革の実務のピークであったらしい。しかも、この年の三月、都知事安井誠一郎の名で「農地改革の完遂に関する件」という通達が出ているが、都下では、このころが、改革の目的である「地主的土地制度の打破」の「最終的重大段階」を迎えていたことになる。この通達は改革の事務手続きが予期以上の成績を収めていることに言及しながら、にもかかわらず、農地改革関係法令の違反者が跡をたたないこと、「反農地改革勢力」の活動が激しくなっているので、これらの不法行為を未然に防止するよう呼びかけたものである。それだけに、多摩村のなかの農地をめぐって、安井都知事もふれているように、争点の一つとなっている未墾地買収問題も浮上していたので自小作層以下の農民たちの動きが鍵を握っていたといえよう。
 多摩村の農地改革は、農地調査会他編『農地改革資料集成』(第一一巻)によると、昭和二十五年八月現在の解放実績は昭和二十年十一月の自作地が二九二町歩で小作地が一五九町歩であったのが、自作地が約三八八町二反五畝と増加し、小作地は約六九町八反八畝と減った。両年の農地の総面積が約八町歩ほど増えているが、それでも、農地改革によって、村の小作地率は、敗戦時の三五・三パーセントから一五・三パーセントに減少し、改革の成果はあがったとみてよい。ちなみに、南多摩郡下では、小作率は約四九・四パーセントであったが、昭和二十五年には一二・三パーセントになっていた。
 多摩村は、すでにのべたように、都市近郊農村の姿をとっていたこととも関連があるように、比較的自作地率が高かったが、それでも農地改革のなかで、農地を売却した在村地主は法人団体もふくめて二〇七戸、不在地主は二法人団体をふくめて一六戸で、売渡しを受けた農家は四三九戸を数えていた。この事情から推して多摩村の農地改革は、GHQ/SCAPの覚書の表現をもちいれば、「自由且民主的な社会」を創りだす要件を満たしていたといえそうである。
 もっとも、旧多摩火工廠の第三工場用地のように戦争中の爪跡と占領下の悲哀を重ねあわせた問題が残ってはいた。それというのは、村の農地委員会が農地改革に取り組んでいる最中の昭和二十二年、多摩村農業会が旧火工廠用地の一時使用を申請し、許可されたので、旧土地所有者が開墾に取り組んだところ、やがて朝鮮戦争が勃発し、そのために用地が再接収されてしまったからである。
 ところで、村にとって、教育改革、農地改革とともに大きな制度改革の波を受けたのは、昭和二十二年四月の地方自治法の制定により、地方自治体の独自の権限が認められ、さらに拡大したことである。地方自治法の趣旨は地方公共団体の場で、民主的で能率的な行政を確保し、自治の健全な発達を保障することにあった。戦後はじめて地方自治法が誕生するにあたり、戦時中につくられた町内会・部落会・隣組が廃止になる。多摩村でも旧部落会、隣組は解散し、ここに地方自治の新しい制度が村の隅々にまで行きわたることになったのである。そして、超国家主義者・軍国主義者を公職から追放し、地方自治法を生んだ四月に、都道府県から市区町村の首長選挙と都道府県・市区町村議会の議員選挙を行った。第一回統一地方選挙である。
 この新しい多摩村の体制づくりのもとで、青年団や婦人会が、村を支える社会組織として脚光をあびてゆく。多摩村青年団は、団報に記載された事業記録でみると、開墾実施計画の論議にあきらかなように、農業振興や慰安演芸に力を入れ、衛生講座、料理講座、洋裁講座など生活改善運動に取り組むとともに、「五大政党立会演説大会」(昭和二十一年三月)を開くなど、政治関心も強く示していた。さらに、婦人会も生活改善事業に情熱を注いでいた。後年、昭和三十二年に婦人会の河原支部の後押しで設立の運びとなった関戸・河原クラブは、さまざまな講習や保育事業にとりかかろうとしていた。
 ところで、多摩村も他市町村と同じように財政難に苦しみ、村農業会、その後の農業協同組合も、農業の経営改善に努力を払っていたとはいえ、農協の赤字は、いっこうに消えそうもなかった。このような村をあげての困難な財政事情を抱えていたからこそ、新生の社会集団の役割は大きいものがあった。こうした村財政の窮状の中で、多摩村で、六・三・三・四制の男女共学の学校新制度にそって多摩中学校を関戸河原に建設したのである。新制中学発足当初は、旧火工廠の第三工場建物の転換使用を検討し、その申請を行ったが却下され、昭和二十七年になって、起債と国庫補助を得て都の失業対策事業として建設し、ようやく実現したのであった。多摩村役場の「昭和二十七年七月二十五日落成記念新築多摩中学校経過概要」をみても、当初から四年有余の年月を空費しなければならなかったのは、農地改革により敷地の選定が困難であったこと、さらに、村財政の窮乏という重圧による経緯がよく分かる。
 村は、都市近郊農業地帯にふさわしい商品作物をつくりだす試みに全力をあげ、財政事情の好転をはかろうとしていた。農家は、米穀・麦・馬鈴薯・甘藷などの主要農産物だけでなく、柿・梨などの果樹栽培、乳業・養豚などの畜産とか薪炭生産にくわえて、クリスマスツリーに用いるドイツトウヒや椎茸の栽培にも乗り出し、暖地林檎やユーカリの栽培にまで手をのばし、農業の近代化につとめた。村はまた、すでにのべたように、戦後改革にともなう生活改善を推進するとともに、高野幾三村長は、昭和初年の観光開発の経験と実績をふまえて観光地構想を打ちだそうとしていた。昭和二十五年の秋、多摩村は、七生・由井・由木の三村とともに、この四村にまたがる多摩丘陵が都立の自然公園に指定されたので、多摩丘陵観光協会を設立した。『毎日新聞』(昭和二十六年三月二十八日付)によると、この観光協会は、その第一回事業として、新聞報道の日、高幡不動尊の境内で、都、毎日新聞、京王電鉄の後援により多摩丘陵祭を挙行している。しかし、都立多摩丘陵自然公園は、実際にはその風致や景観は保護されなかったこともあり、その後に多摩村は、古戦場や聖蹟記念館を利用して観光地として発展させるプランをあみだそうとしていた。
 多摩村のこの狙いは、『毎日新聞』(昭和二十八年五月二十日付)の記事では、聖蹟記念館の付近一帯にすでに桜の苗木二〇〇〇本を植樹し、さらに多摩川河畔の関戸河原に都営総合運動場を建設する計画で、要するに「都民の代表的な憩の地」にしようとするところにあった。この新聞報道は、「三多摩の新地図」の一つとして多摩村を取り上げたものであるが、村にかんして「観光地以外にテなし」という小見出しが、当時の村の実情をそれとなく告げていた。
 それだけに、地方行政の効率を高め、財政の安定をはかることは、多摩村だけの問題ではなく、地方公共団体に共通した課題であった。昭和二十八年に、三か年の時限立法ではあれ、町村合併促進法が制定されたのは、当然の成り行きである。そこで昭和二十九年、東京都は合併促進審議会において合併計画案を作成し、安井知事の名で各町村に諮問したのであった。この合併計画案によると、南多摩郡では一二の町村が合併の対象となっていた。そのうち、多摩村は、由木村との合併を要求された。これについて村では多摩村合併研究委員会や村議会で討議した。当時、多摩村では、南多摩郡東部の日野町、稲城町、七生村、由木村との五町村合併とか、府中市との合併など、より規模の大きな合併を望んでいた。そのため、村としては都知事案に不満の意を表し、反対の態度をとった。
 都知事の提出した二村合併案は、町村合併促進法の後に制定された新市町村建設促進法の施行後も都から勧告の形でだされ、都は積極的に介入しようと目論んでいた。しかし、多摩村だけではなく、由木村も都の案には否定的で、この案は日の目をみることなく終止符を打つことになった。多摩村は、こうして、はじめから広域の町村合併を望んでいたにもかかわらず、皮肉にも合併から取り残されるはめになり、あとでのべるように、昭和三十九年になって単独で町制に踏み切ることになったのである。