昭和・平成期の多摩ニュータウンと市域

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 村から町に転換していく間において、村役場に事務所をおく多摩村開発実行委員会が設けられた。昭和三十二年ごろである。この委員会の目指すところは、関戸、貝取、東寺方、落川、乞田の各村落の区域内の約二〇万坪(六六ヘクタール)に文化的な一大住宅団地を誘致し建設しようとすることであった。委員会は、村長、村議会議員、農業委員会委員、関係地区内の地主代表ならびに役場関係職員で、京王電鉄の全面的な協力を得ながら都市開発への道を歩みはじめていた。約二〇〇〇戸を目途とする京王電鉄の桜ヶ丘団地の買収と造成は、その嚆矢(こうし)であり、医療施設・ゴルフ場建設は、都市化への村の内部からの改造の一歩にほかならない。この動きは、「聖蹟」を看板とする村の景観からの大きな転回であり、「土地ブーム」をひき起こしたこの都市開発は、工場誘致とあいまって都市像をつくりあげることを目安においていた。村当局は、多角的な農業経営に足を置きながら「文化的近代的」な「まちづくり」、すなわち都市づくりを推進することに力をそそいだ。
 ところで、京王電鉄の桜ヶ丘団地の建設がはじまったのは、昭和三十五年であった。「桜ヶ丘」の名称は、京王電鉄の要望によるものである。団地の上水道建設は京王電鉄の寄付金でまかなうという事情もあってか、富沢政鑒村長は、京王電鉄の意向を受け入れて「桜ヶ丘」の新地名を採用する議案を村議会に提出して決定をみたのであった。京王電鉄の桜ヶ丘団地は明らかに一つの「町(タウン)」の出現である。それだけに、桜ヶ丘団地の出現をめぐって、東寺方の自治会が、団地の周辺部の浸水害についての改善や道路整備の陳情を行ったり、桜ヶ丘一丁目の自治会は、建築物の高さ制限にかんする陳情書を提出していた。そこでは、二〇メートルの高さ制限区域内に高層建築が進められたさいの日照権・汚水処理・用水不足などを問題にしていたのである。農村から「文化的近代的」な「まちづくり」への転換の利害をめぐる当然の摩擦問題であり、その問題処理への正当な動きであった。
 村民の要望は、もう一方で積極さを増していた。昭和三十八年二月、岩ノ入、乞田、貝取、馬引沢などの地主一〇〇余名は、所有する山林・水田約三〇万坪(一〇〇ヘクタール)を取りまとめ、日本住宅公団による国家的な地域開発を進めるよう村長に陳情し、村長は、日本住宅公団総裁にその旨を要請した。この陳情は、日本住宅公団が貝取、乞田地区で団地の建設に取りかかることで急速に実現した。『朝日新聞』(昭和三十八年三月十五日付)は、早ければ三年後に完成した暁には、入居者二万人、ひばりヶ丘団地の三倍の公団アパートが出現すると報じていた。当然、町制実現への動きがみえ、そのなかで、多摩村は都市計画法の適用を受けた。そこには、都市計画を実施しているにもかかわらず未指定地区であるから早急に実施せよという東京都の示唆が強く作用していたとはいえ、村の意思が働いていることも事実であった。だから、建設省から稲城町、由木村とともに「東京都多摩都市計画区域」の対象に指定されるなかで、多摩村は村のイメージの塗り替えを積極的に打ちだそうとしていた。
 昭和三十九年一月、富沢村長は、「新年の御挨拶」(『多摩村広報』一〇号)で、前年の十一月、多摩村が、稲城・由木両町村の同意を得てこの三町村の区域が多摩都市計画地域として建設大臣から区域指定を受け、これから土地利用計画・計画街道などの制定を行うと、「整然とした新しい町造り」への抱負を語っていた。と同時に、東京都の南多摩総合開発計画にふれながら、村長は、多摩村の住宅団地の開発計画とあいまって、多摩村の総合開発の夢を語っていた。村長の言葉には、新しい輸送機関、道路網、行政、教育、環境衛生などの公共諸施設を新設しなければならないので、膨大な資金を必要とする関係上、大きな困難がともなうけれども、多摩村を「理想的な文化都市」として実現する夢がこめられていた。そして、多摩村の人口は一〇万人を越すと推定した。
 村は、町への移行が日程にのぼっていたとはいえ、都の南多摩総合開発計画の実現に協力する態度を示し、「バイ・パス」(by-pass)理論、すなわち「とび越え」理論を想像させるような都市構想を持ちはじめていた。村(ヴィレッジ)から市(シティ)への飛躍の発想である。一村単位での都市づくりの特徴といえよう。
 多摩村が町として施行に踏み切ったのは、昭和三十九年四月一日であった。町制施行は、人口の増加、水道・ガスの普及という実績にもとづく村民の世論にもとづくもので、この二、三年来、婦人会の集まりや、中学校のPTAの会合などでよく話題になっていたようである。また、村議会でも町制問題は、数回にわたり話題になっていたらしい。それだけに、外部からみても、多摩村の積極的な都市づくりは高く評価されていた。
 「多摩村を町とする処分の申請について(進達)」を東京都知事東龍太郎宛に提出した南多摩事務所長菅原善助は、多摩村が精力的に総合計画を立てて完成を急いでいること、この村が都下の地域開発の黎明期を迎える中心的な役割をはたしていて、その建設計画とともに驚異的な発展が約束されていると、高い評価をくだしていた。
 多摩村が、多摩町に移行した年の人口は、一万四二三九人であった。この年の一月の人口が一万二七五三人であるから、昭和三十九年のうちに約一五〇〇人増加したことになる。戦後間もないころとくらべると二倍に近い人口増である。戸数は、四五九七戸で、昭和二十五年の三・四倍に増えていた。この人口、戸数の増加は、多摩ニュータウン開発事業が決定し、新住宅市街地開発法にもとづく住宅市街地化の開発のなかで目を見張るできごととして人びとの目に映った。そして、町制施行後の昭和四十六年に、わずか七年七か月で多摩市が誕生したとき、人口は四万二〇二六人を数え、戸数は町制に入った年の約三倍の一万三九〇二戸と、一万の大台をはるかに越えたのである。
 多摩村・多摩町が「バイ・パス」理論を援用するかのように積極的に都市づくりを目指したとしても、直線的に事が運ぶわけはない。これまで都市化と開発という言葉をもちいてきたが、その構想の中身がとうぜんのことながら大きな争点になっていた。たとえば、村長は、昭和三十八年七月の新住宅市街地開発法による適用地域内の農地の改廃問題にふれていたし、町制施行後、多摩ニュータウンの建設も具体的な課題になってきた。
 このうち、農地の改廃問題にかんしては、富沢村長は、昭和三十八年七月の多摩村農業委員会第七回総会において、多摩村の農業は都市化の波により農地が潰廃し転用せざるをえないのが実状であるとのべながら、都市近郊という好条件が整っているので経営によって収益をあげるべきであると強調していた。また、前述した日本住宅公団に開発をゆだねることを陳情した地主一〇〇余名も、農業を存続する意思を持っていて、これまでの農業経営を多角的に改善して、野菜、鶏卵、肉類などの生産物を供給できる態勢を整備することを提案していた。
 しかし、その反面、この年の夏、村は工場誘致奨励に関する条例を設け、村(町)内の産業振興と福祉を増進する工場または事業に奨励金をあたえていくことを決めていた。都市開発が進行するにしたがい、営農の存続を要望する農家と脚光を浴びつつある地元の商工業者との利害関係、外からの商工資本の導入とその措置をめぐる地元との反(そ)りの不一致等の問題がもちあがる。それにくわえて、上下水道、道路等々の整備と建設、宅地造成、河川改修といった都市基盤整備と、それに必要な諸経費の工面をどうするかということが行政の課題となってきていた。
 多摩村から多摩町に変わっていく過程で、都市開発の波はいちだんと高まっていった。富沢町長はことあるごとに「南多摩ニュータウン」の用語で開発の見通しを語っていた。そうしたなかでも、貝取・乞田・落合の三地区の農家一七九戸の調査によると、農業中心の経営、兼業としての営農をそれぞれ希望する農家が二二・一パーセント、五七・五パーセントもあった。これは、日本住宅公団南多摩開発局の昭和四十二年の調査である。
 しかし、昭和三十九年十月、多摩ニュータウン開発事業が決定して以来、かつて強調されてきた開発と村の主要産業である農業との共存に翳りが生じ、建設省、東京都首都整備局、日本住宅公団で構成されている南多摩綜合都市計画策定委員会筋からは、南多摩の農業は発展の見込みがない「残農業」とみなされたように、かつてうたわれた優良農地の保存育成は、影が薄くなっていった。また、富沢町長の昭和四十年、四十一年あたりの挨拶や町議会での施政方針演説などをみていくと多摩ニュータウンの開発が「一大改革」をもたらし、町が変貌することを強調しているのが目立ち、開発にかかわる幹線道路、上・下水道の施設、河川改修の実施をめぐって、町内と区域外の格差を生じない「まちづくり」に神経を配っているかのようである。多摩ニュータウンへの道は、国の施策と都の計画との強いからみで広がっていたからであるが、やはり、多摩町の主体的な取り組みが基本になっていたとみるべきであろう。
 多摩ニュータウンの開発事業が多摩町の社会を大きく揺り動かしていくのは、その事業区域が多摩市域の約六〇パーセントを占めていたからである。と同時に、多摩村・多摩町の開発と独自の「まちづくり」の構想は、ともすると南多摩全域の都市計画策定のなかに埋没させられてしまう危険性もあった。さきにあげた新住宅市街地開発法は、山林だけではなく、優良な農地や長い歴史と伝統をもつ集落地までふくむ広大な土地の全面的な住宅市街化―総合都市計画化が持続音となってニュータウンづくりに影響をおよぼしていく。それだけに、東京都は、ニュータウン開発計画を進めるにあたり全面買収方式から一部を土地区画整理事業と併用する方式に変更し、既存集落の温存をはかる方策をとったのである。これに先だち、多摩町では、四一三名の地権者が、在来の集落と主要農耕地の計画からの除外を求める請願を提出し、この請願を採択した町議会は、東京都知事・都議会などに既存集落の計画除外に要望をしぼった意見書を提出していたのである。ここに多摩町の開発にたいする主体的な取り組みの一端があらわれていた。
 もっとも、多摩町の全面買収方式から一部土地区画整理事業を併用した多摩ニュータウン開発は、事業の推進をめぐって、町の中に反発や不満の空気が流れていた。昭和四十二年、住民は落合、乞田、貝取、関戸、連光寺の集落内の河川、主要道路、鉄道敷設など公共施設整備に関する区画整理反対の請願を町議会に提出していた。また、全日農多摩町農民組合代表は、農家の山林・田畑・家屋敷までが土地収用法で脅かされ買上げを強行されているとして首都整備局と団体交渉をもった。昭和四十三年五月のことである。この動きは、農民の営農と生活を守ってニュータウン計画の再検討を求めたものである。
 昭和四十二、三年の頃は、多摩ニュータウンの開発事業にたいする注文や反対が地元から渦巻いていく。たとえば、大栗川の和田・東寺方地域での河川改修事業にたいする東寺方住民の、地元の土地所有者や現地の実情を無視した計画や河川の拡幅の方法の変更にたいする注文、あるいは大栗川の岩堰用水の既得権確保のための水利組合代表者の陳情、多摩ニュータウンゴミ焼却場設置に反対する落合地区の住民の請願などが、その代表例である。
 この、国と都と多摩町、ここに住む地元の農民、商工業者との間の「いざこざ(トラブル)」は、大がかりなニュータウンづくりにとって不可避なできごとである。その根幹にある問題は、開発計画と事業の進め方や方向と農業経営の継続を望む声との間の調整をどうはかるかにかかっていた。さきの多摩地区区画整理反対の請願を行った落合ほか「旧地区」の七五八名の地権者に答弁するかたちでの富沢町長の言は、こうである。在来の農業・商業の設計は、区画整理によって必ずしもニュータウンのベースになるとは限らないこと、兼業とか転業問題はケース・バイ・ケースによって解決すべきこと、農業は全体として成り立っていかないので、花卉栽培、温室農業経営など経営効率の高い農業を営んでいくことが得策であると。
 こうしたなかで、昭和四十二年四月に誕生した美濃部亮吉都知事のもとで、多摩ニュータウン計画が再検討されていくようになった。東京都首都圏整備局の「多摩ニュータウン構想―その分析と問題点―」などの資料によると、多摩ニュータウン開発の最大の問題点は、計画規模と事業規模が一致しないこと、計画面積の約半分が事業としての見通しをもっていないこと、事業決定区域に区画整理事業が導入されたことであった。そして、首都圏整備局の報告書は、再検討の論点について日本住宅公団が純企業団であり、東京都が「負担力主義」を実際に背負わされていること、ニュータウンを受け入れる市町側が弱体であり、市政・町政の間に占める行財政の格差が開発問題を複雑にしている事情を指摘している。また、報告書は、市町間の格差とそれぞれの自治体内部の産業状態・生産力・担税力の比重の差、地形、立地条件の違いが開発の見通しを困難にしている要素であるとのべていた。
 それだけに、多摩町の行政も、ニュータウンの開発の中で、前述のような旧来からの住民の要求に応えながら、それに加えて新しい住民からの交通事情や医療、教育、もろもろの福祉問題についての要望を汲み上げながら、対処せざるをえなくなっていた。
 ところで、多摩町は困難な多摩ニュータウン事情を抱えながら、昭和四十六年十一月に市制を施行した。すでにこの間、町は町長と町議会長名で、開発にともなう地方公共団体への特別措置を要望する陳情書・請願書を政府はじめ各関係機関に提出していた。それによると、現行法規のもとでの補助、起債、町税収入の推定を基礎に歳出を検討した場合、向う十年間におよそ一〇〇億円以上の赤字が予測されていた。こうしたなかで、「太陽と緑に映える都市」として多摩市が誕生したのである。
 「太陽と緑に映える都市」というスローガンは、あくまでも未来都市像であり、それは、「風かおる緑の丘にあまねく市民の生活に ひとりひとりの市民の心に 陽光がさんさんとふりそそぐ」理想都市をえがいたものであった。このキャッチフレーズによる昭和四十六年三月の「多摩町総合計画基本構想」は、財政上の困難を訴えながら、多摩ニュータウンの建設事業、それにともなう公共施設の整備やコミュニティの育成をはかることを明記している。
 この基本構想をバネに町議会は市制施行の促進を決議し、多摩町は市に生まれ変わったのであって、町から市への移行は、青写真としてえがかれていた。また市制に対する住民の関心も高く『たま広報 市制施行準備特集号』(昭和四十六年三月三十一日付)によれば、アンケートの回答者のうち九六パーセントが市制に賛意を表していた。
 多摩市が出現した昭和四十六年に、人口は四万二〇二六人で、世帯数は一万三九〇二を数えていた。多摩市域の人口は、二年前から急カーブをたどりはじめ、四十四年から四十五年にかけて四二五〇人、四十五年から四十六年には一万二九六五人も、この地に転居してきている。
 この人口の急増は、実は、四十六年三月に「B1地区第一次入居」がはじまったからである。その数は、日本住宅公団住宅四一八四戸、都営住宅は一四二四戸で人口は約一万七〇〇〇人といわれていた。この数字は前年の八月、富沢町長から美濃部都知事宛に人口増とニュータウン関連事業で余儀なくされる臨時行政費の援助を要請する書類からのものである。それにしても、昭和四十五、四十六年の両年度にわたる臨時行政費の額が五〇〇〇万円を上回ることは、多摩町―多摩市の財政能力をはるかに越えるものであった。
 このような財政事情にあり、財政問題が好転しないので、多摩市は、町時代の四十六年四月の愛宕団地の住宅建設協議を最後に昭和四十八年まで協議を停止した。そして昭和四十九年七月に、日本住宅公団、東京都および東京都住宅供給公社の施行者側が多摩市の住宅建設だけの試算にもとづき、その赤字額毎年約九億円への解決策を示し、この秋にようやく建設が再開されたのである。
 開発事業をめぐり、これまで、多少ふれてきたように、多摩町・多摩市の都への圧力を無視することができなかったように、ニュータウンづくりの都市形成の道は、たえず地元の利害関係にからむ対立・調整の動きを抜きにして、その変動を語ることはできない。
 事実、市内の、とくに開発区域内のニュータウン開発にともなう利害の衝突や開発格差への不安や不満は、後をたたなかった。その一例として、昭和四十七年六月、日本住宅公団が稲城市で地権者に多摩市地区の地主より有利に用地を買収したため、不利益をこうむったとして、市域の地主二四六人が土地買収格差是正にかんする請願書を多摩市の市議会議長に提出し、補償を要求した事例をあげることができよう。また、ニュータウン建設にともなう住環境の整備、道路上の駐車の禁止とか都道の拡幅改修、排水路の改修、住宅団地内の基盤整備、下水道の建設にかんする陳情、請願がだされ、ニュータウンづくりの細かい要望が住民から市・市議会へ、そして、下水道問題のように、争点によっては多摩市から東京都へ要望が投げかけられていた。
 多摩ニュータウンの市(まち)づくりにおいて目を見張るのは、市制施行にともなう行政区域の整理・変更、都市基盤の整備問題や一部農家の転業・生活再建や人口の急増にともなう教育・福祉施設の拡充等々をめぐって、事業整理区域外の住民だけでなく、新しい住民ともども地域内からの積極的な発言や行動が目立つようになったことである。
 ところで、多摩市域の人口は、その後も急増の一途をたどっていた。市制施行五年後の昭和五十一年には、人口は七万四七八六人となり、『統計たま平成八年版』によると、昭和五十七年には一〇万一四〇五人となり、さらに上昇曲線をえがき続け、昭和時代の終わりの年、いいかえれば平成改元の年(一九八九)には一三万九〇六三人を数えるにいたった。この人口の急膨張こそは、多摩市域の風景を一変した象徴的な出来事であったといえよう。
 今日、多摩市域を見渡すと、その約三分の二近くの範囲が多摩ニュータウンの開発事業区域になっている。そして、ここに市の人口の約七〇パーセントを越す人びとが居を構えていて、かつての緑に覆われていた多摩丘陵のここかしこも住宅地となってその様相を一変し、低地には幹線道路が走っている。この風景のさまがわりは、開発以前の写真と今日の風景をならべてみれば、容易に想像することができる。たとえば、北側の三本松の丘からみた落合・山王下方面の樹木が連なる丘の斜面・水田の往年のパノラマ写真と、今日の近代建築と道路の織りなす景色とを比べてみれば、その鋭角的な変貌を知ることができよう。
 この変化は、都市の景観を整えたそのたたずまいだけにあるのではない。注目すべきは、市域の北を走る京王線にくわえて、南部を調布駅から別れて京王相模原線が京王永山駅、多摩センター駅へと鉄路を伸ばし、そして小田急電鉄多摩線が新百合ケ丘駅から永山駅を通り多摩センター駅へと乗り入れ、もう一つの動脈が市域を貫いたことである。
 昭和五十年代のはじめごろから半ばにかけては、多摩センター駅は、二つの私鉄の閑散とした終着駅にすぎなかったが、平成年間にはいり、いまや京王線は横浜線の橋本駅につながり、小田急線は唐木田まで伸びた。この動脈とパルテノンという市の文化施設、ホテル、デパート、飲食店などの諸施設とつながりをもつ多摩センター駅は、新宿と八王子を結ぶ京王線の中枢ともいうべき聖蹟桜ヶ丘駅と並び、文字どおりセンターとしての機能をおびるようになった。
 このころ多摩市の人口は一四万人を越えていた。そのピークは、平成五年の一四万五六九九人であった(『統計たま平成八年版』)。しかもこの間、聖蹟桜ヶ丘駅と多摩センター駅を中心として文化行政の進展もあってか文化、医療・福祉の諸施設も充実度を増していった。それだけに、この二つの多摩市の玄関口には、ホテル、デパート、銀行、公共施設なども華やかさをそえ、まさしく現代都市にふさわしい景観を呈するようになった。ここでいう現代都市とは、都・市行政の側が提供する「多機能複合都市」の要件をそなえたという意味である。
 今日、東京都は、多摩ニュータウンを中心とする広域圏を設定して、「生き生きとゆとりある生活を営めるまち多摩ニュータウン」という地域イメージを掲げている。その整備の指針は、多摩都市モノレールの開通を考慮に入れて、居住者の生活の場であることを重視し、業務・商業施設、大学等々の教育・文化施設の立地が進んでいる現状をみつめ、地域内人口三〇万人および進出企業等へのサービス供給機能の拡大と高次化をめざしている。そして、今後、業務・商業、文化の諸機能を高め、立地条件の整備を誘導し、就業機会の増大をはかっていくこと、また、緑豊かで良好な居住環境をそなえた「生活文化の中心都市」として多摩ニュータウンを育成・整備していくことをうたっているのである(東京都都市計画局総合計画部多摩開発企画室『多摩の「心(しん)」育成・整備指針 平成七年』)。
 このことに関連して、関東通商産業局は多摩地域の広い範囲に集積されている電気・電子・情報通信および輸送機械などの先端産業や、これらを支える製品開発型中堅中小企業、基盤技術型中小企業、さらには二〇余の理工系学部をもつ大学や公的研究機関の相互の連携を強めていく「アクションプログラム」の構想を打ちだしている(関東通商産業局商工部『広域多摩地域の開発型産業集積に関する調査報告』)。この調査報告書は、平成九年六月に発表されたものであるが、このように、多摩地域の中堅中小企業を中心とする産業集積の実態をとらえ、地域経済の発展と新規産業創出の道を模索していくことは、多摩市自体にとっても今後の重要な課題となろう。
 多摩ニュータウンを中心とする多摩市の現況と将来を見透していくさいに、地域経済の活性化をどうはかっていくかという具体的な手だてを検討しなければならない。と同時に、多摩ニュータウンも三十年の歴史の重みを刻んできた事実を重視する必要がある。三十年という時間の経過は、「理想の街」とみなされたニュータウンづくりの時の環境とは異なる事態を生みだしている。その顕著な現象として、さきにふれたように平成五年をピークとして、その後人口がゆるやかに減少をみせはじめていることがあげられる。なかでも、三〇代の人口の減が目立ち、その反面、四〇、五〇代の人口が増えている傾向にある。この事態は、ニュータウンの居住者の高齢化が進んでいることを意味し、ニュータウン草創期の第一次世代を中心とする核家族化をものがたっていよう。もっとも、今後、多摩市の人口も、地域別、世代別に変動していくことが予測され、環境も様変りしていくであろうが、いまのべてきたような現状は、さしあたり、これからの多摩市を考えていくうえでの社会問題のシグナルの一つになってきている。
                                              (金原左門)