婦人会の国防教練

633 ~ 636
昭和十七年(一九四二)六月、日本軍はミッドウェー海戦で敗北する。これを機に戦局は転換し、アメリカ軍の猛反撃がはじまった。二か月後の同年八月、米海兵隊はガダルカナル島に上陸する。その結果、翌昭和十八年二月から、日本軍はガダルカナル島からの撤退を開始した。同年四月には連合艦隊司令長官・山本五十六が戦死し、翌月アッツ島の日本軍守備隊も全滅する。
 山本の戦死、アッツ島守備隊「玉砕」の衝撃的な知らせは、「山本元帥の仇を討て」「アッツの復仇(ふっきゅう)」という米英に対する敵意をあおる言葉に変わった。戦局はこのようにますます日本にとって不利な状況となっていたが、戦争への国民の動員はいちだんと強化され、とりわけ家庭を守る女性に対しては、日常生活の引き締めがさらに求められていく。
 昭和十七年二月、愛国婦人会、大日本国防婦人会、大日本連合婦人会を統合して、大日本婦人会が結成された。多摩村では、大日本婦人会の支部組織がどのようにして生まれたのかわからないが、支部の下には各地区ごとに合計四五の婦人会の班が置かれ、上意下達の機関としての性格を強めている。
 昭和十七年三月には、大日本婦人会は総裁宮奉戴記念必勝国民貯蓄組合を設立し、貯蓄奨励運動を繰り広げる(千野陽一『近代日本婦人教育史』)。それを受けて、各支部には必勝国民貯蓄組合が結成され、大日本婦人会多摩村支部にも必勝国民貯蓄組合が設置される。支部ごとの貯蓄増加目標額は、前年度末の婦人会の南多摩郡町村支部長常会で指示されていた。例えば、昭和十九年度の大日本婦人会多摩村支部の貯蓄増加目標額は四万一五六〇円であるが、これは昭和十九年三月十九日の南多摩郡町村支部長常会で決められている(多摩市行政資料)。この貯蓄運動が末端にまで浸透していることは、表2―1―1の支部班別の報告書が作られていることから、うかがい知ることができよう。
表2―1―1 多摩村婦人会の貯蓄現況(昭和19年9月末現在)
婦人会班名 組合員数(人) 現在貯蓄額(円)
関戸第一 17 675
関戸第二 18 756
関戸第三 19 776
関戸第四 22 837
関戸第五・第六 40 2,323
本村第一 26 720
本村第二 21 841
本村第三・第四 28 941
馬引沢第一・第二 28 939
下河原第一・第二・第三 51 1,884
東部第一 21 648
東部第二・第四 29 772
貝取第一 19 678
貝取第二 19 676
乞田第一 31 982
乞田第二 26 736
乞田第三・第四 25 610
乞田第五 14 532
落合第一 19 691
落合第二 26 781
落合第三 25 773
落合第四 22 683
落合第五 22 690
和田第一 23 933
和田第二 19 824
和田第三 23 850
和田第四・第五 28 975
東寺方第一 11 749
東寺方第二 12 723
東寺方第三 17 881
東寺方第四 14 686
東寺方第五 15 644
東寺方第六 14 671
一ノ宮第一 29 1,068
一ノ宮第二・第三 30 1,091
一ノ宮第四 12 378
合計 815 31,633
「必勝国民貯蓄組合現況班別報告書」(多摩市行政資料)より作成。

 しかし、いくら全会員が組合員となって生活を切りつめても、目標額を達成することは難しかった。多摩村支部長がまとめた昭和十九年(一九四四)九月の貯蓄現況報告書によると、確かに貯蓄額は三万一六三三円と前年度末に比べ二倍以上増えている。だが一方、九月現在の増加額は一万九一八四円で、十九年度の増加目標額の半額にも達していなかった(多摩市行政資料)。さらに追いうちをかけるようにして、これとは別の新しい貯蓄運動も、そのつど付け加えられる。昭和十九年十一月には、台湾沖戦果感謝貯蓄運動が実施され、大日本婦人会多摩村支部には目標額として一七〇〇円が割り当てられた(多摩市行政資料)。
 また貯蓄だけではなく、献納運動もさかんに行われる。例えば、昭和十九年七月には傷痍軍人へのおむつ、兵器増産のための折針、落下傘の生産にまわす衣料切符の献納が進められた(『毎日新聞』昭和十九年六月三十日付)。その結果は、表2―1―2の通りである。このほか、軍馬の飼料となる茶殻の回収(多摩市行政資料)や、火薬の原料としての古綿の回収も行われた(『毎日新聞』昭和二十年一月十八日付)。戦争遂行のために回収も拍車がかけられ、こうしてさまざまな物資に広がっていく。
表2―1―2 南多摩郡各町村婦人会の献納状況
町村名 会員数(昭和19年3月末現在) 衣料切符(点) おしめ(枚) 折針(匁)
横山村 678 1,040 466 950
浅川町 945 1,139 524 1,226
元八王子村 785 870 438 1,000
恩方村 738 810 417 1,200
川口村 823 691 406 1,210
加住村 460 507 278 650
日野町 2,210 2,863 870 2,000
七生村 608 623 430 755
由木村 775 676 254 1,000
多摩村 810 1,137 344 1,190
稲城村 1,014 1,136 510 1,014
「南多摩郡自治会費書類綴」(多摩市行政資料)より作成。

 こういった婦人会の活動のなかで、最も戦争への女性の動員を特徴づけていたのは国防教練といえよう。南多摩郡各町村の婦人会は昭和十九年十月に初めて、東京連隊区から出張した係官による国防教練の査閲を受けた(『毎日新聞』昭和十九年九月二十三日付)。多摩村支部でも行われ、表2―1―3のように受閲者と見学者をあわせて三五九人と、全会員の四割が参加している。「本土決戦」が叫ばれるなか、非戦闘員でも男女を問わず、実践に即応する軍事訓練に動員されていった。
表2―1―3 南多摩郡各婦人会の国防教練参加状況
町村名 会員数 査閲出場者数
受閲者数 見学者数 合計
横山村 678 231 100 331
浅川町 945 280 200 480
元八王子村 785 257 195 452
恩方村 738 163 82 247
川口村 823 95 140 235
加住村 460 130 215 345
日野町 2,210 350 45 396
七生村 608 117 25 142
由木村 775 214 100 314
多摩村 810 188 171 359
稲城村 1,014 143 74 217
鶴川村 883 286 53 339
南村 815 272 131 403
町田町 2,800 185 195 380
忠生村 1,010
堺村 802 228 88 316
由井村 885 126 75 201
合計 17,041 3,268 1,889 5,157
「国防教練及救急法査閲出場人員調」(多摩市行政資料)より作成。
注)1 会員数は昭和19年3月末現在。
  2 忠生村の国防教練は同年11月2日に予定され、まだ当時実施されていなかった。