農兵隊と防衛隊

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戦局は悪化の一途をたどり、非戦闘員をまきこむ絶望的な抗戦が続くなかで、昭和十九年(一九四四)以降、多摩村民は部落会と隣組を単位に供出のための薪切り、松根掘りといった共同作業に動員されていた。この共同作業については「備忘録」にも記録されており、当時七〇歳近い筆者の伊野富佐次も、薪切り、松根掘りといった力仕事に参加していることがわかる。戦争で一家の働き手を失ったことにより、そのしわ寄せは女性、子ども、さらに老人にまで及んでいた。また、男女、年齢を問わず村民の共同作業が続けられる一方で、農兵隊、防衛隊といった新たな組織も生まれ、いちだんと動員が徹底される。
 政府は昭和十八年六月の第一次食糧増産応急対策要項に基づき、農村の青少年からなる食糧増産隊(農兵隊)を結成させ、翌年二月には組織を強化するため、食糧増産隊要綱を発表した(農林大臣官房総務課編『農林行政史 第二巻』)。この要綱により、食糧増産隊は甲と乙の二種類に分かれ、一四歳から一九歳の農家の跡つぎである男子を各道府県が募集する甲種食糧増産隊と、原則として国民学校卒業後二年以内の男女を市町村で編成した乙種食糧増産隊が置かれることとなる(『朝日新聞』昭和十九年二月六日付)。
 これにしたがい、多摩村にも青年を集めて乙種食糧増産隊(乙種農兵隊)が結成された。多摩村の乙種農兵隊は第一、第二の二つの小隊からなる軍隊式編成で組織され、郡農会駐在技術員の指示により指定の場所を開墾し、じゃがいもを植えたという(終戦前後の生活に関する座談会)。そのため、隊員が病気や急用で作業を休むにしても徹底しており、そのつど証人となる小隊長と分隊長の署名捺印をそえて、多摩村農兵隊動員部長にあてて欠勤届を提出しなければならなかった(田中登氏蔵)。
 表2―1―4の昭和二十年度の麦類・馬鈴薯生産割当表を見ると、他の農事実行組合とは別個に、農兵隊には五九俵の馬鈴薯の生産が割り当てられている。この乙種農兵隊が耕したじゃがいも畑の除草は、国民学校高等科の児童が受けもち、手伝っていた(資四―150)。
表2―1―4 昭和20年度の多摩村麦類・馬鈴薯割当数
農事実行組合名 麦類(匁) 馬鈴薯(俵)
関戸 4,903 113
連光寺第一 2,026 87
連光寺第二 1,574 96
連光寺第三 3,738 84
連光寺第四 1,374 125
貝取 1,772 102
乞田第一 1,487 87
乞田第二 994 59
乞田第三 2,146 67
落合第一 906 47
落合第二 991 69
落合第三 653 54
落合第四 883 73
落合第五 923 82
和田第一 2,160 175
和田第二 1,687 65
東寺方 4,706 104
一ノ宮 3,527 55
農兵隊 ―― 59
合計 36,450 1,603
「メモ帳」(田中登氏蔵)より作成。

 このように、そのときどきの出征遺家族への勤労奉仕作業とは異なり、農兵隊は農場をもち、年間を通して耕作をしていた。ただ、一年間を期限とするこの乙種農兵隊は、昭和二十年度には活動しているものの、昭和十九年度から多摩村で活動していたかどうかはわからない(『毎日新聞』昭和二十年三月三十日付)。

図2―1―1 農兵隊の作業

 一方「本土決戦」にむけて、帝国在郷軍人会は各地の在郷軍人からなる防衛隊を編成し、さらに軍に協力する強力な組織をつくろうとした。この方針は、昭和十九年八月十七日に開かれた全国師団連合支部長会議で伝えられる(防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 本土決戦準備(一)』)。当日示された「時局ニ伴フ帝国在郷軍人会動員態勢化要領」(多摩市行政資料)では、同年九月六日までに新しく設置する防衛隊の基幹委員を決定するよう求めていた。多摩村でも、合計一五人からなる防衛隊の基幹委員表を作成している(資四―145)。
 引きつづき九月十一日、防衛隊の結成式が全国いっせいに行われる(『戦史叢書 本土決戦準備(一)』)。三つの小隊からなる多摩村防衛隊は、結成後「徹底抗戦」を目指し、軍の作戦に協力するため国民学校の校庭を使い、銃あるいは竹やりによる戦闘訓練を実施した(資四―150)。
 昭和十九年十一月には、「南多摩郡連合防衛隊情報通信連絡規定」(多摩市行政資料)が作られ、空襲警報発令時の伝令の任務が決められる。翌昭和二十年三月十九日に実施された防衛隊基幹要員対象の戦闘訓練では、「対敵抗戦」を想定して、匍匐(ほふく)前進のほか、戦車に直接突っこむ肉弾作戦の訓練も行われた(資四―146)。
 政府は昭和二十年三月、「国体護持」「国民総武装」「一億玉砕」をスローガンに、国民義勇隊を結成する方針を決める。大政翼賛会とその傘下にあった大日本青少年団と大日本婦人会は解散し、同年六月には義勇兵役法が公布された。これに基づいて、一五歳から六〇歳までの男子と、一七歳から四〇歳までの女子は義勇兵役に服することになり、必要に応じて国民義勇戦闘隊に編入されることとなる。しかしながら、多摩村の国民義勇隊の結成を物語る資料は今のところ見つかっていない。
 その後防衛隊は、国民義勇隊の結成が閣議決定されると、地区特設警備隊にあらためられる(『戦史叢書 本土決戦準備(一)』)。あわせて一二二人の多摩村の地区特設警備隊は、防衛隊のときよりも少ない二つの小隊と、八つの分隊で編成された。昭和二十年八月二日には多摩村で「軍紀教練」「対戦車肉攻」など、東部第三〇六五四部隊による地区特設警備隊への教育が予定されていた(多摩市行政資料)。