空襲と軍隊の駐屯

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昭和十九年(一九四四)七月、サイパン島の日本軍守備隊が全滅し、翌月にはテニアン島とグアム島も陥落した。日本軍の相つぐ「玉砕」、その背後で多くの非戦闘員がまきぞえにされていく。
 太平洋上の制海権と制空権をにぎったアメリカ軍は占領後マリアナ基地を整備し、そこから飛びたつB29爆撃機を日本本土にむけた。東京はすでに昭和十七年四月、米軍による空襲を一度受けていたが、昭和十九年十一月以降日増しに激しくなり、無差別爆撃にさらされる。
 昭和十八年ごろから多摩村でも警戒警報が発令され、空襲にそなえて防空壕が掘られた。「多摩聖蹟記念館日誌」(多摩市教育委員会蔵)によると、記念館では昭和十八年七月から防空壕を、翌年十一月から貯水池をつくりはじめている。昭和二十年三月には宝物のための壕も掘られ、荷づくりが行われた(資四―149)。
 落合地区でも「昭和十九・二十年度区費精算帳」(田中登氏蔵)を見ると、防空壕をつくるための材料が支出の項目に載っており、昭和十九年ごろには、防空壕掘りをはじめていたことがわかる。地元の人たちのほか、同じころ本土防衛のため落合青年倶楽部に駐屯していた兵士たちも、防空壕をつくっていたという(峰岸松三『落合名所図絵』)。しかし資材不足のため、すべての家に防空壕がつくられたわけではなく、養蚕をやっていた農家では養蚕で使っていた穴ぐらが利用された。
 表2―1―5のように、昭和十八年には二回だった警戒警報の発令回数も、翌昭和十九年に入ると九月までに六回を数えている。同年十一月には初めて空襲警報が発令され、警戒警報もその月だけで八回に達した。
表2―1―5 記念館日誌にみる警報発令回数
警戒警報 空襲警報
昭和18年5月 1 0
9月 1 0
昭和19年5月 1 0
6月 2 0
7月 1 0
8月 1 0
9月 1 0
11月 8 7
12月 37 12
昭和20年1月 31 2
2月 34 12
3月 29 3
4月 47 10
「多摩聖蹟記念館日誌」より作成。

 B29の編隊は相模湾を北上して、富士山を望みながら東に向きを変え、東京を目指す。その結果、東京への空襲がたび重なるにつれ、飛行コースにあたる多摩の警報回数もそれに比例して急増する。しかし、多摩村は通り道であっても、攻撃の目標にはなっていない。そのため、B29とそれにむかっていく日本の戦闘機の空中戦を裏山で見物したり、青い空をバックに銀色の機体をキラキラ光らせて真上を飛ぶB29の姿をじっとながめていることができた。
 だが、このような状態も長くは続かない。夜間を中心に多摩村でも、多い日には一日に四回も空襲警報が発令され、警戒警報三回以上の日が連日に及ぶこともあった(「多摩聖蹟記念館日誌」)。昭和二十年(一九四五)四月四日未明には、現在の桜ヶ丘カントリークラブ付近が爆撃を受け、周辺に被害が出ている。多摩聖蹟記念館では、この爆撃の振動で正面のガラスが割れたという(資四―149)。また低空で飛行する艦載機が突然村民に襲いかかり、機銃掃射を受けることもしばしばおこった。戦局が緊迫するにつれ、空襲に対する恐怖心はいやがうえにも高まっていく。
 空襲警報が出ると、国民学校の授業はすぐに中止され、子どもたちは集団で下校した。さらに加えて、昭和二十年六月になると、多摩国民学校は陸軍燃料兵器本廠、東京師管区部隊、拓作業隊第一二〇八二部隊安藤隊から、教室使用の申し込みを受ける。落合青年倶楽部と同じように、軍が兵舎として建物を使用するにつれ、国民学校では教室が足りなくなり、同年六月八日からは午前組と午後組の二部授業を強いられることとなった(資四―150)。空襲と軍隊の駐屯により、学校は勉強どころではなくなる。

図2―1―2 昭和20年春の国民学校野外教授

 多摩村に駐屯した軍隊のうち、拓作業隊は七つの作業隊と整備中隊に分かれ、空襲で被害を受けた施設の復旧作業を各地で行った。現地では、野菜などの食糧を付近の農業会から調達し、また役場を通じ勤労奉仕として動員された地元の人たちも使って作業を進めている。
 拓作業隊本部「作業要報綴」(防衛庁防衛研究所図書館蔵)によると、昭和二十年八月、南多摩には拓作業隊のうち第五作業隊が配置されている。第五作業隊は竹と松の伐採、道路の補修などの作業を順調に行ったものの、予定されていた架橋作業と砂利敷には、資材不足のため手をつけることができなかった。
 この第五作業隊の作業には、多摩村の人たちも動員された。「作業要報綴」を見ると、昭和二十年八月十一日に勤労奉仕で来ていた多摩村民の負傷が記録されている。こうして敗戦の直前まで、軍の指示による勤労奉仕作業が続けられる一方で、関戸橋付近には米軍の宣伝ビラが落ちていた(田中登氏・馬場一郎氏からの聞きとり)。