敗戦直後の混乱

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満州事変から約十五年におよぶアジア・太平洋戦争は、日本の敗北によって終わりを告げる。昭和二十年(一九四五)八月十五日正午、昭和天皇の肉声による戦争終結の詔書(玉音放送)が、ラジオを通じて全国に流された。伊野富佐次は、「備忘録」(伊野弘世氏蔵)にこう書きしるしている。
八月十五日 正午 大東亜戦争停戦ニ関スル大詔ヲ、ラジオヲ以テ全国に宣布セラル。顧ルニ、……敵ニ南洋諸島及ビ沖縄ヲ奪ハレ、昭和二十年以来敵空軍ハ我本土ヲ襲ヒ、夏ニ至リ昼夜ノ別ナク来襲シ、三大都市ヲ始メ其他ノ市及軍事施設ヲ破カイセラレ、八月ニ至リソ連モ亦連合軍ニ参加シ、且ツ敵ハ恐ルベキ原子爆弾ヲ使用シ、広島・長崎市ヲ殆ント壊滅セシメルニ至リ、我国モ物量及化学ノ力及バズ、遂ニ講和ノ止ムナキニ至レリ。


図2―1―3 8月15日の伊野富佐次「備忘録」

 伊野は日中戦争からしだいに不利になっていった戦局をふりかえり、戦争に負けたという現実を冷静に受けとめている。なかには軍関係の知りあいを通して、事前に敗戦降伏の噂を耳にしていた者もいたが、日ごろ「聖戦完遂」「一億玉砕」が強く叫ばれていただけに、突然降伏したことを知らされて、とまどいを隠せない者が少なくなかった。
 「玉音放送」は聞きとりにくく、しかも言葉が難しかったため、よく意味が分からなかったという声も聞かれる。下川原の砂利鉄道に駐屯していた二〇人近い軍隊とともに、実家で放送を聞いていた細田ユキは、アナウンサーの解説で敗けたことがわかり、ただただ涙が出てきたという。そばにいた兵土たちもみな一様に落胆していた(終戦前後の生活に関する座談会)。
 降伏を知った人たちは、しばらくして占領軍に関する流言に接する。それはすべて男性は去勢され、女性は娼婦にされるという内容であった。女性の外出は遠慮され、人びとの顔に不安がつのる。
 山王下では、米軍の占領によってこれから起こるであろう不安から、女性を中心に一〇数人が落合青年倶楽部に集まり、八月十五日にお別れ会が開かれた。多摩火工廠に勤める人が貴重な砂糖を持ってきて、おしるこが作られたという(田中登氏・馬場一郎氏からの聞きとり)。
 多摩火工廠でも八月十五日正午、全員ラジオの前に集められる。「玉音放送」を聞いた作業員たちは、みなお互いに声を出して泣いたという。しかし、涙もかわかぬその日のうちに、文書の焼却作業がはじまった(資四―119)。重要書類はリヤカーに積んで、船ヶ台の横穴まで運び、そこで焼く作業が続けられる(多摩火工廠勤務者座談会)。多摩火工廠にかぎらず、多摩村役場でも不都合な文書が焼かれた(上乞田地区座談会)。
 一方、大福寺に集団疎開していた子どもたちは、先生から「玉音放送」の内容について教えられると、いっせいに本堂から外にとび出し、「もう戦争が終わったんだ」「電気を消さなくてもいいんだ」「もう空襲もないんだ」と口ぐちに叫んで喜んだという(大福寺聞きとり調査)。戦争のために離れて暮らし、空襲で身内を失う友だちもいるなかで、月日が経つにつれ、親をしたう気持ちをおさえきれなくなっていたことがうかがえる。その後、山中国民学校の子どもたちは昭和二十一年(一九四六)三月までに、つぎつぎと親のもとに帰っていった(品川区立品川歴史館編『品川の学童集団疎開資料集』)。このように戦時下での経験、その人の置かれた立場、年齢などの違いによって、敗戦の受けとめかたは異なっている。
 「玉音放送」の前日、政府は占領軍による接収を避けるため、「本土決戦」に備えて蓄えていた軍需物資の処分を決めた。陸軍の指示にしたがい、多摩火工廠では地元の村役場と学校に物資を優先的に配っている(山田重雄『多摩火工廠懐古』、『稲城市史 資料編4 近現代Ⅱ』33)。これを受けて八月二十三日、多摩国民学校は分析器具類を譲りうけ(資四―150)、多摩村も村民を派遣し、もらった板材などを役場の倉庫に納めさせた。ちなみに、村民の受取先は多摩火工廠にとどまらず、陸軍多摩飛行場(現・米軍横田基地)にまで及んでいた(「対照日誌」峰岸松三氏蔵)。
 しかし一方で、役場の指示はしっかりしたものでなく、多摩火工廠では物品処理で不手際があり、物不足と軍の崩壊を背景にして、「火工廠に行けば何かもらえる」という話がどこからともなく人づてに伝わった。多摩村からも牛車、リヤカーをもっている者が大ぜいでもらいに行き、炸薬箱あるいはそれを作るための木材を持てるだけもち帰って、地域の人たちと分けている(終戦前後の生活に関する座談会)。なかには、食用油やスフをもらった人もいた(多摩火工廠勤務者座談会)。連光寺では、防空壕にあった軍のガソリンを地元の人たちで分けたという(連光寺地区座談会)。
 戦争のために生活を最大限きりつめ、牛車で弾薬を運ぶなど軍の指示で勤労奉仕に動員されてきた人たちが、多摩火工廠の物資に群がり、根こそぎもって行く。戦車道路の建設予定地では、「陸軍用地」と刻まれた標石が各家で抜きとられ、耕作が行われる。そこには、戦時中では考えられない光景が広がっていた。政府は昭和二十年八月二十八日、無計画、無秩序に軍保有物が流出するのを防ぐため、軍需物資の処分に関する十四日の閣議決定を廃止する。