生活の立て直し

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これまで戦争協力の渦に巻きこまれてきた村民は、物不足のなか敗戦により、これからどのように生活を維持していくかという課題に追われることとなった。軍の崩壊を背景に、多摩火工廠と戦車道路予定地で見られた光景は、自らの生活の立て直しにむけた一つの積極的な表れといえよう。しかし、人びとの生活の根本は、無条件降伏という結果に直面しても変わることはなかった。朝、星を見ながら野良に出て、生命(いのち)をはぐくむ確かな土を相手に、額に汗して働く。昨日までと同じ作業を、確かめるように繰りかえすことで、生活に対する不安を新しい時代への希望に変えていった。
 戦時中、一部兵舎として使われていた国民学校でも本来の教育機能を取り戻すため、昭和二十年(一九四五)八月二十七日から連日、授業の復旧にむけた準備が進められた。全校生徒と先生が一体となって校内を清掃し、九月三日には二学期をスタートさせている(資四―150)。それに対して、文部省は同年九月十五日、「新日本建設ノ教育方針」を発表する。そのなかで、新教育の方針に「国体護持」と「平和国家の建設」が掲げられた。この二つの柱は、多摩青年学校の教育方針にも反映している(資四―151)。
 ところが、「国体護持」の信念を強調しながら「平和国家の建設」をうたう矛盾は、教育現場に混乱をもたらすことになる。文部省は九月二十日、「平和国家の建設」の点から中等学校以下の教材で戦時色の濃いものを削除するよう指示し、教室では教科書に墨が塗られる一方で、「国体護持」の点からこれまで学校行事のなかに組みこまれてきた神社参拝も続けられた。教育勅語の奉読式が行われた十月三十日には占領軍が来校し、武道用具を焼却するという教育方針の矛盾を象徴するような出来事も、多摩国民学校で起こっている(資四―150)。
 また多摩村では、銃後国民の戦争への動員を徹底させてきた常会が戦後も引きつづき開かれ、食糧危機の克服を呼びかける常会徹底事項が示される(多摩市行政資料)。危機的な食糧事情を背景に、戦時中からの農兵隊の活動はさらに期待され、国民学校高等科生徒の農作業も連日続けられた。昭和二十年十二月には、医療機関の荒廃が進むなかで、乳幼児身体検査と村民体力検査が行われる(資四―150)。戦前からの村の保健事業は、敗戦後も続いていた。占領軍が非軍事化と民主化を押し進めるものの、このようにまだ戦時中にあった組織と活動が教育をはじめ村のいろいろな面に残っていた。従来のものを引きずりながら、一方で新しい時代のいぶきを感じさせる動きも芽生えはじめる。
 昭和二十年十二月には多摩村青年団が再建され、その後さまざまな意欲的活動を行う。翌年一月には南多摩郡教員組合、二月に多摩村農民組合がそれぞれ結成式を挙げた。昭和二十一年一月、自由民権運動の徹底を叫び、設立準備会を開いた三多摩民権擁護同盟に呼応する動きも、多摩村にはあったといわれる(『読売報知』昭和二十一年一月二十九日付)。生活の維持に追われながらも、社会の民主化を目指す新しい組織が生まれ、村にも変化のきざしが現れていた。
 しかし、社会が復興にむかって変わりはじめても、戦争の暗い影は消えることがなかった。敗戦とともに、海外から兵士の復員、民間人の引き揚げが進む一方で、満州、ソ連からの引き揚げは大幅に遅れる。
 とりわけソ連占領地域にいた日本軍民は、シベリア各地の収容所に送られ、強制労働を強いられた。そのため引き揚げは長期におよび、寒さと飢えのなかで命を落とした者が多い。多摩村出身のシベリア抑留者のなかにも、二度とふるさとの土を踏めなかった者がいた(落合兵役座談会)。
 シベリアにかぎらず、敗戦後、戦争の悲惨な実態が浮かび上がるにつれて、多摩村でも悲しい知らせが相つぐ。待ちわびる留守家族の祈るような願いはとどかず、戦地で力つき、屍となったまま、遺骨の戻らないケースも多かった。
 多摩村では戦死者の御霊を弔うため、昭和二十年八月、九月、十二月、翌年四月と、合同村葬が執行された(資四―150・多摩市行政資料)。昭和二十四年(一九四九)四月には、多摩村社会事業助成会が村内を三つの地区に分けて、戦争犠牲者慰霊祭を挙行している(『多摩町誌』)。

図2―1―4 戦没者追悼式のプログラム

 また昭和二十二年一月、占領軍の破壊命令に背いて警防団が穴に埋めた忠魂碑は、対日講和条約の発効後に村民の手で掘りおこされた(「思い出」峰岸松三氏蔵)。この忠魂碑は再建され、昭和二十七年十月の多摩村戦没者追悼式にあわせて、除幕を行っている(『多摩町誌』)。そこに刻まれた満州事変以後の村の戦没者は二六〇人であった。
 さらに加えて、戦時中、共同炊事の勤労奉仕で落合にやってきた浅草第一女子青年団の多くの団員も、東京大空襲の犠牲となる。多摩村にゆかりのある人たちのこういった悲報は、のちになって伝えられた(寺沢清氏・寺沢伴好氏からの聞きとり)。
安らかに眠って下さい
過ちは
繰返しませぬから(雑賀忠義による「広島原爆慰霊碑」碑文)

 犠牲となった多くの人たちにささげる祈りが、平和への固い誓いとなる。ものいわぬ犠牲者の思いと、二度と戦争の惨禍を繰りかえさないという決意を胸に、多摩村は新たな時代を少しずつ歩みはじめた。