第一の指令のなかで強調されていることは、軍国主義的・超国家主義的教育内容と教員の調査である。教育内容については、「軍国主義的及ビ極端ナル国家主義的イデオロギーノ普及ヲ禁止スルコト、軍事教育ノ学科及教練ハ凡テ廃止スルコト」を命じ、「アラユル職業軍人及ビ軍国主義、極端ナル国家主義ノ積極的ナル鼓吹者及ビ占領政策ニ対シテ積極的ニ反対スル人ハ罷免セラルベキコト」と記している。最後の項目に、すべての教育関係者は、この指令が明示している政策の精神と条文を遵奉する個人的責を負うものとするとしている。
この指令が発せられると、指令が遵守されているかどうか、予告なしにMP(米軍憲兵)が学校の現場調査を実施し、違反に対しては有無を言わさず強行手段におよんだ。昭和二十年十月三十日の多摩村国民学校「学校日誌」はそのことを示している。指令が発令された一週間後に、まさに事件ともいうべき事態が発生した。
十月三十日
(前略)一、亜米利加進駐軍(MP)来校、校舎内各所検索、武道教授用具(木銃、薙刀、木刀等)焼却ス
(前略)一、亜米利加進駐軍(MP)来校、校舎内各所検索、武道教授用具(木銃、薙刀、木刀等)焼却ス
(資四―150)
図2―1―6 多摩国民学校「学校日誌」
別の資料によるとアメリカの進駐軍七名が来校し、校舎内を調査して木銃七九挺をはじめ武道用具を焼却したというのだ。学校にとっては米軍の行動は度胆を抜く行為として映ったにちがいない。実はこれより五日前の十月二十五日、町田町(町田市)の南国民学校で同じことが起った。校庭にジープが入ってくるや、MPがいきなり土足のまま職員室へ飛びこみ、玄関脇に立てかけられていた薙刀、木刀等を片っ端からかかえて裏の庭へ投げ出し、積みあげて火をつけ、燃え終ると直ちに引きあげた、という(『町田市教育史』下巻)。GHQは実力を行使して教育改革の「指令」が只者でないことを示したのである。
それでは当時の学校ではどのようなことが教育されていたのであろうか。多摩国民学校日誌を見てみよう。
終戦直後の九月二十五日、「多摩陵遙拝日」となっている。十月一日は「大神宮奉仕日(神宮遙拝、国旗掲揚)」をしている。十月二日には「戦争終結報告祭(小野神社一〇、白山神社一五)」をし、翌三日には同じく八幡神社で行っている。十月十五日、終戦二か月後になるが「大神宮奉仕日」で神宮遙拝と国旗掲揚を行っている。翌十六日には、十七日が神嘗祭ということで、校長から校庭訓話が行われた。そしてMPに検索された十月三十日は、「教育ニ関スル勅語下賜記念日」であったので、奉読式を行って二時限の授業に入った。
以上のように、ポツダム宣言受諾を「玉音」として放送した八月十五日以降、学校行事は戦時下となんら変わっていなかった。太平洋戦争の無条件降伏も、「戦争終結報告祭」や「終戦報告祭」として、言葉の上では戦争が終結しただけで「敗戦」という言葉はみられなかった。
この現象はなにも多摩村の小学校だけの特異な現象ではなかった。当時の教育界の一般的な動きであった。終戦直後の九月十五日に出された「新日本建設ノ教育方針」の中で、今後の教育は「益々国体ノ護持ニ努ムル」ことが必要であると強調し、東久邇内閣の文相前田多聞は、中央講習会において肇国の精神に立脚した教育革新を遂行するために教育勅語を講読する必要を訴えていた(大田堯編著『戦後日本教育史』)。
だが事態は急変した。町田市域の鶴川国民学校では、町田署からのMP検索の連絡を受け、事前に薙刀・木刀等を処分した。町田市域では終戦時までの公文書をこの時に処分した学校が多かったという(『町田市教育史』下巻)。
第二の指令は第一指令の八日後の昭和二十年十月三十日に行われた。「教育及ビ教育関係者ノ調査、除外、認可ニ関スル件」である。第一指令のうちの教育関係者の詳細事項である。
この指令を実施するため文部省は二十一年五月七日、勅令第二六三号「教職員ノ除去、就職禁止及復職ノ件」を公布し、同日訓令を出して都道府県に審査委員会の設置を指示した。これを受けて東京都では、六月に東京都教員適格審査委員会を設けて審査を開始し、二十二年四月まで審査を実施した『東京都教育史稿』戦後学校教育編)。
教職追放に続いて二十一年一月四日、GHQは、軍国主義者の公職追放・超国家主義団体の解散を指令したが、多摩村においても当時、元公職関係者など数名が追放基準に抵触し、公職追放の処分を受けている。
多摩村の国民学校や青年学校の教師を含めて当時の学校は、突然の米軍の現場視察や教員適格審査に或る種の不安を抱きつつ、食糧難の生活苦のなかで敗戦国の苦汁を嘗めながら毎日の生活を送っていかなければならなかった。