「四大指令」の結果と影響

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東京都では、昭和二十二年(一九四七)一月八日付で教育局長名により各市区町村長、各学校長宛に「連合国軍最高司令部より発する指令並に之に基く通牒の取扱について」を発した。その中で昭和二十一年十二月六日附第八軍訓令第九二号抜萃を引用して「学校に関する最高司令部の命令を伝へる文部省のすべての通牒」について、「東京神奈川軍政部教育係の見解」として次のように述べている。
1最高司令部の命令を伝へる文部省のすべての通牒とは左の四項目に関係するものに限る。
a、軍事教練の撤廃に関するもの
b、超国家主義教育に関するもの
c、修身、国史、地理の授業に関するもの
d、神道思想に関するもの
 尚、右にいう文部省の通牒とは、文部省の通牒又は之に基いて地方庁の発する通牒の意である。

(『東京都教育史稿』)

 a~dと四大指令との関連をみると、a・bは第一指令、cは第四指令、dは第三指令そのものであり、第二指令はa~dに関係を持っている。要するにa~dは四大指令を大綱としたものであることに間違いない。
 右に関連して南多摩地方事務所長は、管下の国民学校・青年学校に「連合軍最高司令部より発する指令並に之に基く諸通牒、処置状況に就ての報告の件(東京神奈川軍政部係の見解中)」を求めた。報告をみると前述のa~dの項目をそのまま掲げ、それらの処置状況の報告になっているが、多摩村の隣村七生村の潤徳国民学校長・七生第一青年学校長は要旨次のように報告している。
 a「軍事教練徹(撤)廃に関するもの」
 終戦の詔書が喚発されると教練と軍事学科は即停止し、銃剣類は村の在郷軍人会へ引渡して処分し、教練用具と関係書類は焼却した。教練用具は校内に一片の残留もないようにした。終戦にともなう重要な指示事項については閲覧証明紙をつくり、閲覧者は捺印し、マ司令部指示閲読証明簿を備付け、閲読した者は氏名記入捺印させた。以上に関係する重要指令書類は米国の対日方針、ポツダム宣言、教練用具その他銃兵器引渡準備に関する件としている。
 b「超国家主義教育に関するもの」
 「指令書類」として四点を掲げている。1、日本教育制度に対する管理政策に関する件、2、降伏後に於ける米国初期の対日方針、3、終戦に伴う教科用図書取扱方に関する件、4、文部大臣の新教育方針、中央講習会に於ける訓示。これらの示達事項についても、a項目と同様全職員と関係父兄に閲覧させ、氏名記入捺印を徹底している。
 c「修身、国史、地理教授に関するもの」
 終戦に伴う教科用図書取扱方に関する件については、通牒に基づいて削除すべき部分は削除し、取扱いに慎重を期している。修身、国史、地理の授業停止については即時停止した。また地理授業の再開については指示に従って再開した。国史授業の再開については、文部省が編纂し連合国軍最高司令部の認可した教科書を使用、指示された注意事項に留意して授業を実施した。なお全職員と関係父兄が閲読し、氏名記入捺印についてはb項と同じである。
 d「国家神道神社神道に対する政府の保証支援保全及監督並に弘布の禁止に関する件」
 右のことから次のように実施した、として伊勢神宮、明治神宮等に対する団体参拝を取り止める。氏神等に対する団体参拝を取り止める。氏神祭日等における休業日は廃止する。国祭日についてはその都度上司の指示に従う。神宮大麻(おふだ)頒布、神饌米(神に供える米)奉献等の行事は中止、神棚等はかたづけを完了し、以上に関係する思想的授業を中止する(「マ司令部関係書類綴」日野市立潤徳小学校蔵)。
 以上のように、GHQの命令に対して違反のないように忠実に実行していったのはどこの学校でも全く同じであった。多摩国民学校においても「学校日誌」にそのことがはっきりあらわれている。
 四大改革は昭和二十年十月末から同年十二月末までに実施されたが、二十年の後半と四大改革の影響が出る二十一年の前半を、「学校日誌」を通して比較すると相異が明白である。二十年の後半の段階では戦時下そのままの学校行事が続いている。即ち十一月一日の大神宮奉仕日(国旗掲揚、大神宮遙拝)、同じく三日の明治節奉祝式の如くである。ところが十二月の九段中学での校長講習や教頭講習あたりを境に変化する。それまでの「英霊帰還」が「遺骨帰還」(十二月十九日)にかわり、二十一年にはいると神社関係は一切日誌から消滅し、それらに代って青年政治講座、教員組合結成の準備、マ司令部ヴィード中尉との座談会、「御真影」が「御写真」にかわっての返却、多摩村農民組合の結成、農地法改正、青年団主催五大政党演説会と一月から三月にかけて、民主主義の息吹きを感じさせる社会変革の動きが「学校日誌」に登場する。多摩国民学校は学校教育のみならず多摩村の民主化推進の場としてその基軸となる役割を果していくことが読みとれるのである。