戦車道路予定地の売渡

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同じ旧軍用地である相模陸軍造兵廠の戦車道路は、敗戦時にどこまでできあがっていたのであろうか。戦後、東京都農地委員会に提出された資料によると、戦車道路の建設は多摩村と忠生村(現・町田市)の境に位置する操車場まで進んでいたことがわかる(資四―120)。朝鮮人労働者を使って過酷な条件のもと急ピッチで行われた工事は、多摩村まであと少しのところに迫っていた。
 しかし結局、建設工事は多摩村まで達することなく、未完の状態で敗戦をむかえる。そのため、砂利が敷かれていない戦車道路予定地での耕作は、戦時中と変わらず続けられた。敗戦直後の表むきの変化といえば、工事関係者が打ち込んでいった標石を、農作業のじゃまとなるため、さっそく各家で抜きとったことぐらいであろう。その後、この「陸軍用地」と刻まれた標石が、どのようにしてまとめられ、処理されたのかは明らかではない。
 こうして、敗戦後も耕作が続けられるが、それですべての問題が解決したわけではなかった。いくら現実に自らの手で標石を外し耕しているといっても、戦時中陸軍が買い上げた土地である以上、村民には所有権がない。この陸軍省名義の戦車道路予定地は、戦後国有財産として大蔵省の管理になっていた。
 落合地区の昭和二十四年(一九四九)の「精算帳」(田中登氏蔵)を見ると、「元戦車道路関係」という項目があり、そこには昭和二十三年五月十四日付で「官地返還請書プリント代」として、五六〇円支出したと記されている。どういった経緯で返還を求める動きが起こったのかわからないが、昭和二十三年の時点で、落合では戦車道路予定地の返還を求める動きがあったことは、この資料からうかがえる。

図2―1―10 昭和24年度落合区精算帳

 当時、旧軍用地の売渡は農地改革とからみ、自作農創設特別措置法により行われていた。つまり、自作農の創設を目的として旧軍用地が売渡されるため、多摩村では売渡す相手を選考し、土地利用の計画を含む売渡計画書を東京都農地委員会に提出する。そして、それが議決され、東京都知事の認可を受けたのち、計画どおり土地耕作者に売渡されることになっていた。
 この手続きにしたがい、戦車道路予定地の売渡計画が東京都農地委員会で議決されたのは、昭和二十四年一月三十一日のことであった。計画書では、売渡の時期は同年二月一日となっている(東京都公文書館蔵)。この決定を受けてか、先ほどあげた落合地区の「精算帳」には同年四月二十三日付で「戦車道路宴会費」という項目が見られる。
 ところが、多摩村では売渡の時期が決まったにもかかわらず、売渡通知書の交付までにそれから三年もかかった。自作農の創設を目的に、必ずしも陸軍が買収した当時の地主ではなく、現時点での土地耕作者に売渡すという複雑さを反映してか、買受希望者の特定、現地と土地台帳との照合といった村での事務手続自体がうまく進まず、計画の訂正を行っている(資四―173・174)。
 ようやく売渡通知書が交付されたのは、昭和二十七年(一九五二)になってからである(資四―178)。多摩村のほとんどのところでは、同年十二月に所有権の移転が行われ(資四―179)、それにともない翌昭和二十八年一月から二月にかけて、売渡代金を徴収している(資四―175・176)。こうして自作農創設の問題がからみ、手続きに手まどったとはいえ、陸軍によって強制的に買収された戦車道路予定地は村民の手に戻った。
 その後、町田市域の戦車道路の跡地は「尾根緑道」となっているが、多摩市域ではニュータウンの建設により、当時を物語るものは残っていない。同じように陸軍に買収されたにもかかわらず、連光寺の多摩火工廠とは対照的な軌跡を戦後たどったといえる。