凶作と戦後の食糧難

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敗戦直後の日本経済は破滅的な状況にあった。戦争終結による解放感を喫することはできたのだが、食糧難と物資不足によるインフレの高進のため、民衆の生活は苦しさを増していた。失業や住宅難も深刻化し、犯罪も増加する傾向にあった。この状況に対応するため、統制経済が採用された。戦時統制は直ちには廃棄されず、戦後経済の処方策として継続されることになったのである。
 食糧難は早急に解決すべき課題であった。しかし、世界的に食糧不足の状態であったから、食糧の緊急輸入は簡単なことではなかった。食糧統制の必要性が認識され、生産・流通・消費の全過程が国家管理のもとにおかれた。配給と供出を含んだ食管制度が維持されることとなったのである。食管制度は食糧管理法が昭和十七年(一九四二)二月に公布されたことから始まったものであるが、生産者と地主は米と麦を政府に売り渡す義務があった。食糧管理法に基づく供出割当量を供出時期までに政府に供出しない場合には、供出しなかった数量分を政府が強制的に収用することができた(二十一年二月に発令された食糧緊急措置令による)。主要食糧の増産を促進する策も採られた。二十三年には、米・麦・甘藷・馬鈴薯・雑穀の作付については事前に割当命令することができる、と規定した食糧確保臨時措置法が施行された。
 主食である米は、昭和十九年と二十年は明治四十三年(一九一〇)以来の凶作であった。昭和二十年産米の収穫高は三九一七万八〇〇〇石であり、昭和十四年(六八九六万石)の五七パーセントに過ぎなかった。政府が発表した必要量に二〇〇〇万石も足りなかったから、新米の季節になったとしても食糧不足は解決されようはずもなかった。戦時中にもないほどの異常事態であった。米の配給は、大人一人あたりで一日二合三勺から二合一勺に引き下げられた。これは代用食としての甘藷や馬鈴薯も含めた数値であり、食糧の遅配・欠配は定常的なものとなっていた。食糧不足は全国的な傾向であったが、とりわけて、都市部では惨めな様相を呈していた。飢餓も心配された。統制外の闇価格による売買も横行した。危機的な状況にあり、社会問題化・政治問題化していたため、農村に対する過重な供出割当や強権的な完納奨励をやらざるを得なかったのである。
 昭和二十一年五月二十三日の『毎日新聞』は、八王子市を中心とする餓死突破同盟の委員一同が、近接する稲城、多摩、七生、日野、由井、由木各町村をトラックで訪ね(五月二十二日)、農業会や町村当局に食糧救援を懇請し、一応の成果をあげたと伝えている。南多摩農業会が五月二十三日に多摩村の対鴎荘で町村農業会長会議を開催し、飢餓救済農民運動を自主的に展開する、という記事もある。都下の食糧事情が悪く、入荷量が所要量の半分にも達しないというのが、その理由である。そこで、全農家に食糧の節約と拠出を呼びかけた。数量は限定せず、できるだけ多く集荷する方針、とある(見出しは「肥料引受けた食糧を頼む 餓死突破同盟農村と話合ひ成立」である)。食糧難に苦しむ都市住民や被災者への救援出荷状況の一端を見て取ることができよう。
 「官庁からの農村への出張」に関する記事(『毎日新聞』昭和二十一年七月九日付)は、「押しかける役人に悲鳴 食ひ稼ぎ出張に町村の悩み」との見出しを掲げている。「栄養失調になりさうだ、懇談会をやろう」というのが官庁における流行語であったという。この懇談会は「いづれも食糧の比較的豊かな町村の名誉職宅が選ばれ」た。南多摩町村長常会は各町村の「持廻り」で毎月開催され、昭和二十一年五月は南村で、六月は多摩村で行われた。極度の食糧危機の状況下ではあったが、この会合は「近頃にない豪華版」であり、町村では接待に苦心を払っていた。食糧確保と接待を目当てにした「役人の町村役場への出張」も多くなっている、と報じられている。